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  <title>アドルノ美学研究会</title>
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  <description>アドルノ美学研究会: テオドール・アドルノ『美学理論』の原書講読と翻訳</description>
  <lastBuildDate>Sun, 11 Oct 2015 16:56:08 GMT</lastBuildDate>
  <language>ja</language>
  <copyright>© Ninja Tools Inc.</copyright>
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    <item>
    <title>研究会休止のお知らせ</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>本研究会は、2015年10月現在休止中です。</p>
<p>ただし、『美学理論』を含めたアドルノ美学の勉強会は、以下で引き続き行われています。こちらもご参照ください。（松永）</p>
<br />

<ul>
<li><a href="http://asthetischetheorie.web.fc2.com/" target="_blank">アドルノ『美の理論』読書会</a></li>
</ul>]]>
    </description>
    <category>研究会について</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E4%BC%91%E6%AD%A2%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B</link>
    <pubDate>Sun, 11 Oct 2015 16:56:08 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>II.2. 芸術の脱芸術化-文化産業への批判 (2)</title>
    <description>
    <![CDATA[観る者と観られるものの間にある古くからの親和的関係は捻じ曲げられる。今日に典型的な振る舞いにより芸術作品が単に事実にされることによって、ものとしての如何なる存在とも相容れない模倣的契機までもが商品として高く売りつけられる。消費者は感情の動き、即ち模倣的残滓を、自分の前にあるものの上に好きなように投影して構わない。ひとつの作品を観、聞き、読んでいた主体は、全体が管理される段階まで自己を忘れ、自己に無関心になり、作品のうちに消え去ることになったのである。主体が遂行する同定は、理想としては、芸術作品を自らと等しくする同定ではなく、自らを芸術作品と等しくするという同定であった。この同定のうちに美的昇華は存する。ヘーゲルはそのような態度を一般に客体への自由とよんだ。まさにそのことによって彼は主体に敬意を表したのであり、そうした主体は精神的経験において自己を放棄することによって主体となる。それは、芸術作品とは何かを与えるものであるという俗物的な要求とは反対のものである。<br />
<br />
しかし芸術作品は主体を投影するタブラ・ラサとして変質してしまう。芸術作品の脱芸術化の両極とは、芸術作品が諸々の物のうちのひとつである物になるし、かつ、観者の心理状態の媒体になるということである。物象化した芸術作品は、もはや何かを語らない。観者は標準化された自身のエコーによってそこを埋め合わせる。そのエコーを観者は芸術作品から聞き取るのである。文化産業はこうしたメカニズムを始動させ、利用するのだ。文化産業は、かつて人間とは疎遠であったもの、〔エコーで〕埋め合わせる際に他律的に〔文化産業の〕意のままになるものを、人間に身近なもの、人間の所有物であるものとして出現させる。しかし文化産業に反対する直接的に社会的な論拠ですら、文化産業のイデオロギー的な構成要素を有している。自律的な芸術も、文化産業による権威主義的な屈辱から完全に自由だというわけではない。芸術の自律性は生成されたものであり、これは芸術の概念を構成する。しかし、ア・プリオリに構成されるわけではない。かつて礼拝的作品がゲンス〔同姓同系氏族集団〕に及ぼしていたであろう権威は、もっともオーセンティックな作品において、内在的な形式法則となった。自由の理念は、美的自律性と今日のようなもので、自由の理念を普遍化した権力をたよりに形づくられた。芸術作品もまた同様に形づくられたのである。芸術作品が外的目的から自由になればなるほど、芸術自らが統治し、組織したものとして、芸術作品は自身をより完全に規定した。しかし、芸術作品はそのひとつの面を常に社会に向けているため、芸術作品において内面化された権力までもが外部に向かって放たれたのである。こうした連関を意識すると、芸術の前では沈黙するが、文化産業批判は行うというのは不可能である。しかし、それなりの理由をもって、あらゆる芸術に不自由があることを嗅ぎつける者は、力を抜き、近づきつつある管理体制を前に諦めるという誘惑の中に置かれている。というのも、実際いつもこんなものだ、と考えてしまっているからである。他者の仮象の中では他者の可能性も開けるというのに。<br />
<br />
イメージの欠如した世界の只中で、芸術への欲求―それは複製の機械的手段によってはじめて芸術に直面させられた大衆の欲求でもあるのだが―が高まるということは、むしろ疑いを呼び起こす。こうした欲求は芸術の外部にあり、いずれにせよ芸術の存続を擁護するには十分ではない。芸術への欲求が持つ補足的性格、即ち脱魔術化の慰めとして、魔術的なもののなごりである。それは、「欺かれることを欲している世界」の一例として芸術を貶め、芸術のかたちを歪めるのだ。これらの特徴は、偽りの意識による存在論に属するものである。こうした特徴において、精神を制御したと同時に解放した市民階級は、偽りの意識が市民階級に完全には信じさせることのできないものでも、自己自身すら欺いて、精神的に受け入れ、享受するのである。芸術は、社会に現存している欲求に適合するかぎりで、その大部分が利潤によってコントロールされる営みとなってきた。こうした営みは、それが利潤を生み、〔営みの〕完璧さによって自らがすでに死んでいるということをやり過ごすかぎりで進行を続けるのである。伝統的オペラのような繁栄している芸術ジャンルや芸術修養の分野も空疎なものとなった。そのことは公式な文化では見えてはこない。しかし、ただでさえそれ固有の完全の理想を追う困難の中にあるのに、文化の精神的欠如は直接、文化の実際の機能不全に陥る。文化の現実の堕落は見て取れるのである。生産力を強化しながら全体をより高次なかたちへともたらす人間の欲求への信頼は、欲求というものが偽りの社会によって統合され、偽りのものとなって以来、もはや持ちこたえることができない。たしかに欲求は予定どおり再び満たされるが、しかしこうした充足はそれ自身偽りであり、人間から人間であることの権利をだまし取ってしまうものなのである。<br />
<div style="text-align:right">（水田有子）</div>]]>
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    <category>『美学理論』 翻訳</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E3%80%8E%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E7%90%86%E8%AB%96%E3%80%8F%20%E7%BF%BB%E8%A8%B3/ii.2.%20%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AE%E8%84%B1%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%8C%96-%E6%96%87%E5%8C%96%E7%94%A3%E6%A5%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%20-2-</link>
    <pubDate>Tue, 21 Sep 2010 07:55:04 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>II.2. 芸術の脱芸術化-文化産業への批判 (1)</title>
    <description>
    <![CDATA[芸術は自らの自明性の喪失に対して、どのように態度を取り、振舞うかの具体的変化によってのみならず、「芸術は芸術である」という足かせのようなそれ固有の概念を引きちぎろうとすることによって応えるのである。そのことは、低級芸術、あるいは今日文化産業によって管理され、統合され、質的に改変されているかつての低級芸術、あるいは娯楽の中に最も明確に確かめることができる。実際、こうした領域はそれ自体では遅れて生じてきた純粋芸術に従うことは一度たりともたなかったのである。この領域は、あらゆるユーモアがそうであるように、文化が不成功に終わることの証しとして文化に常に入り込み、文化が不成功に終わることをそれ固有の意思としたのである。ユーモアというものはその伝統的な形態と今日的な形態の至福の調和において、それを成そうとするのである。文化産業の策にのせられ、文化産業の商品を渇望する者は芸術とは異なる世界にいる。そのため彼らは現代の社会生活のプロセスに対して―人生に本来的な虚偽に対してではない―芸術が不適当であることに、かつて芸術作品であったものをいまだに反芻し続けること者たちよりも、はっきりと気づいている。彼らは芸術の脱芸術化を強く求める。手を伸ばして触れること、どんな作品にもありのままでいることを禁じ、アレンジして、観者と作品の距離を縮めることへの情熱はそうした彼らの傾向である。芸術と生活との間にある恥ずかしいほどの相違は彼らにとって消滅されるべきものである。彼らは生活し、それを邪魔されたくないのだ。というのも、邪魔されることに耐えられないからである。そうしたことは既得権によって芸術を消費財にするための主観的基礎となる。<br />
<br />
それらすべてにもかかわらず芸術は容易に消費可能なものにはならないが、少なくとも芸術との関係が実際の消費財との関係を拠りどころとすることは可能である。そのことは、過剰生産の時代において消費財の使用価値が疑わしくなったこと、「所有している」という威信から生ずる二次的な享楽、結局は商品としての性格それ自体の享楽に、即ち美的仮象のパロディーに屈することによって容易になるのである。<br />
<br />
芸術作品の自律性は、芸術作品が芸術作品であると信じられているものより良いものであるとみなされることで、文化顧客を憤慨させるものなのであるが、そうした芸術作品の自律性には、商品の物神的性格、芸術の根源にある古代的物神崇拝への後退しか残されていない。その限りで芸術に対する現代の振る舞いとは後退的なものである。文化商品(Kulturwaren)は他者にとって実際的なものとなることはないが、文化商品においてはその抽象的対他存在が消費される。文化商品は他者の意に従うことで他者を欺くのである。<br />
<div style="text-align:right">（水田有子）</div>]]>
    </description>
    <category>『美学理論』 翻訳</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E3%80%8E%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E7%90%86%E8%AB%96%E3%80%8F%20%E7%BF%BB%E8%A8%B3/ii.2.%20%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AE%E8%84%B1%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%8C%96-%E6%96%87%E5%8C%96%E7%94%A3%E6%A5%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%20-1-</link>
    <pubDate>Tue, 21 Sep 2010 07:49:29 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>II.1. 素材の崩壊</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong>II. 状況</strong><br />
<br />
1. 素材の崩壊<br />
<br />
カテゴリーとともに、また素材もそのアプリオリな自明性を失ったが、それは文学の言葉も同じことだった。素材の崩壊は素材の対他存在の勝利である。その最初でかつ強力な証拠としてホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』は有名になった。新ロマン主義文学は総じてそのような崩壊に抵抗し、言語や他の素材にその実体性の幾ばくかを取り戻そうとする試みとしてみなされるかもしれない。だが、[新ロマン主義の]ユーゲントシュティールに対するアレルギーは、その試みが失敗に終わったことの裏返しなのである。カフカの言葉を用いると、振り返ってそうした試みは、積荷のないご機嫌な道行きのように見える。ゲオルゲは『第七の輪』からの一連の作品群の冒頭の詩において、森へ呼びかけて、ただ黄金、紅玉髄といった言葉を並べねばならなかったが、それは彼の文体の原理に従うなら、言葉の選択が詩的に輝くということが望まれてしかるべきだったからだ(1)。『ドリアン・グレイ』の六〇年後、言葉の選択は装飾的な配列として認識されうるようになったが、高貴を尽くした素材が原材料のまま積み上げられたワイルドの『ドリアン・グレイ』にもはや敵うことはなかった。だが『ドリアン・グレイ』に積み上げられた素材は、その極上の唯美主義のインテリアを骨董品店や競売所に似たものにしてしまい、かくしてまさにあれほど嫌った商売に似たものにしてしまう。シェーンベルクもこれと類似のことを述べている。ショパンは楽だった、ショパンはたんに当時まだ使い古されていなかった嬰ヘ長調を使えばよかった、それだけでもう素晴らしかったのだから、と。ところで、歴史哲学的に細かいことを言えば、音楽の初期ロマン主義において、素材は実際ショパン独特の調性のように、未開拓のものの力を放っていたが、それは一九〇〇年ごろすでに「特選品」に堕落してしまっていた。だが彼らの言葉や配置あるいは調性に生じたものは、高尚で神聖なもの一般としての詩文学の伝統的概念を容赦なく襲った。文学は幻想解体のプロセスにひたすら耽るものへと籠ってしまった。その幻想解体のプロセスは文学的なものの概念をすっかり消尽する。そのことがベケットの作品の抗いがたい力を形作っている。　<br />
(鈴木賢子)<br />
<br />
(1) Vgl.Stefan Gerge, Werke. Ausgabe in zwei Bänden, hg. Von R.Boehringer, München u. Dusseldorf 1958, Bd.1, S.294(»Eingang« zu »Traumdunkel«)<br />
]]>
    </description>
    <category>『美学理論』 翻訳</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E3%80%8E%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E7%90%86%E8%AB%96%E3%80%8F%20%E7%BF%BB%E8%A8%B3/ii.1.%20%E7%B4%A0%E6%9D%90%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A</link>
    <pubDate>Wed, 11 Aug 2010 13:28:02 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>I.8.  美的な快楽主義と認識の幸福</title>
    <description>
    <![CDATA[ 美的な快楽主義における真理の契機は、芸術においては手段が目的にまるきり埋没してしまうわけではないということによって裏付けられている。手段と目的の弁証法において、手段はつねにいくばくかの自律性をも維持し、しかも媒介されている。感覚的に快いものによって、芸術に本質的なものであるような現象が統合される。アルバン・ベルクの言葉に従うなら、形作られたものから釘が突き出ておらず膠が匂わないということにも、ひとかけらの即物性がある。そして、多くのモーツァルト作品の表現の甘美さは、声の甘美さを呼び出すものだ。すぐれた作品において感覚的なものは、それらの作品のもつ術Kunstによって閃きながら精神的なものになる。逆に作品の精神によって、いかに現象には無頓着であろうと、抽象的な一個の物は感性的な輝きを獲得するのである。それ自体で細部まで完全に形作られ表現された芸術作品は、その組織化された形式言語によって、二次的にだが感覚的に快いものを帯びることがある。不協和音、すなわちすべてのモデルネ芸術の印は、その視覚的等価物においても同様だが、そうした魅惑の感覚をそのアンチテーゼ、すなわち苦痛へと変容する形で許容している。これこそ両価性Ambivalenzの美的原現象である。ボードレール、『トリスタン』以降の新芸術に対するすべての不協和音の見極めがたい射程は――まことに不協和音はモデルネの芸術の一種の不変数である――次のことに由来する。すなわち、芸術作品が主観に及ぼす力は自律している。しかるに、その芸術作品の自律性が高まるのとパラレルに、芸術作品の内在的作用反作用は、外の現実とともに不協和音へと収斂していく。不協和音が内側から芸術作品にもたらしているのは、通俗的な社会学が芸術作品の社会的疎外と呼んだものだ。これまでのところ言うまでもなく、芸術作品は精神に媒介された心地よさを通俗的な心地よさにあまりにも似ているとしていまだタブー視している。そういう展開が進めば、感覚のタブーはさらに強まるのかもしれない。このタブーがどこまで形式法則に基づき、どこまでたんに技巧の欠陥に基づくものなのかを区別するのは難しいことだが。ちなみにこういう区別の問題は、美学論争に登場するものの、あまり実を結ばないような似たりよったりの多くの問題のひとつだ。感覚のタブーは結局さらに快いものの反対項にも及ぶ。というのも快いものは、それがどんなに遠く隔たっていても、それの特定の否定において共に感じられるからである。そのような反応の形式ゆえに、不協和音は自らの反作用つまり協和にあまりにも近いものになる。不協和音は非人間性のイデオロギーにすぎない人間的なものの仮象にたいして冷淡で、むしろ具体化された意識の側につく。不協和音は、無反応の物質に冷え固まり、直接性の新しい形態になる。この直接性の新しい形態は自分がどこから生まれ来たったのかという記憶の痕跡を持たず、しかもそこにはとんと構わず質を欠いている。芸術がもはや場を持たず、芸術に対するどのような反応も狼狽えたものになってしまうような社会では、芸術は物として凝固した文化財と、顧客が獲得するような、たいてい対象とはほとんど関係のない欲望充足の快楽とに分裂する。芸術作品における主観的快は、対他存在の総体性としての経験から放免されたものの状態に接近し、そうした経験には接近しないだろう。ショーペンハウアーは最初にそのことに気付いていたのかもしれない。芸術作品に接して得られる幸福は不意に逃れ去ってしまったものであり、芸術がそこから逃れ去ったものの残り滓ではない。その幸福は、つねに偶然的なものでしかなく、芸術にとっては芸術を認識することの幸福よりも非本質的なものである。構成的なものとしての芸術享受の概念は廃すべきである。ヘーゲルの洞察によれば、美的対象についてのすべての感情には偶然的なもの――たいていは心理的な投影である――が貼りついていて、その偶然的なものが観察者に認識を、しかも正しさの認識を要求する。つまり偶然的なものは、自分の真実と虚偽に気付かれるよう欲している。美的な快楽主義に対抗しうるのは、カントがどこか予断を含ませながら芸術を除外した崇高論の例の箇所であろう。芸術作品における幸福とは、おそらく芸術作品が伝える抵抗の感覚でありうるだろう。このことは、個々の作品よりも、むしろ全体としての美的な領域にあてはまる。<br />
<div style="text-align:right"> (鈴木賢子)</div><br />
]]>
    </description>
    <category>『美学理論』 翻訳</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E3%80%8E%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E7%90%86%E8%AB%96%E3%80%8F%20%E7%BF%BB%E8%A8%B3/i.8.%20%20%E7%BE%8E%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%BF%AB%E6%A5%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%AE%E5%B9%B8%E7%A6%8F</link>
    <pubDate>Wed, 11 Aug 2010 13:18:59 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>日本語で読めるアドルノ文献</title>
    <description>
    <![CDATA[<div class="content">

<ul class="disc"><li><a href="#adorno_writings">アドルノの著作</a>
<ul class="circle">
<li><a href="#adorno_aesthetics">美学・芸術論的著作</a></li>
<li><a href="#adorno_philosophy">哲学・認識論的著作</a></li>
<li><a href="#adorno_sociology">社会学的著作</a></li>
<li><a href="#adorno_letters">書簡集・講演等</a></li>
</ul>
</li></ul>
<ul class="disc"><li><a href="#secondary">アドルノ・フランクフルト学派についての二次文献</a></li></ul>
</div>

<h3 id="adorno_writings">アドルノの著作</h3>

<div class="content">
<h4 id="adorno_aesthetics">1. 美学・芸術論的著作</h4>

<ul class="disc">
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309240771/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">美の理論</a>』 大久保健治訳, 河出書房新社, 1985.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309241050/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">美の理論・補遺</a>』 大久保健治訳, 河出書房新社, 1988.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309705359/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">美の理論 新装完全版</a>』 大久保健治訳, 河出書房新社, 2007.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582762328/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">不協和音: 管理社会における音楽</a>』 三光長治・高辻和義訳, 平凡社, 1998.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622030829/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">キルケゴール: 美的なものの構築</a>』 山本泰三訳, みすず書房, 1998.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J92JAQ/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">新音楽の哲学</a>』 渡辺健訳, 音楽之友社, 1973.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582702678/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">新音楽の哲学</a>』 龍村あや子訳, 平凡社, 2007.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582762921/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">音楽社会学序説: 十二の理論的な講義</a>』 渡辺健・高辻和義訳, 平凡社, 1999.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560036942/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">楽興の時</a>』 三光長治・川村二郎訳, 白水社, 1994.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588001256/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アルバン・ベルク: 極微なる移行の巨匠</a>』 平野嘉彦訳, 法政大学出版局, 1983.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4878932708/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">ベートーヴェン: 音楽の哲学</a>』 大久保健治訳, 作品社, 1997.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588006282/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">マーラー: 音楽観相学</a>』 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622074702/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ 文学ノート 1</a>』 三光長治他訳, みすず書房, 2009</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622074710/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ 文学ノート 2</a>』 三光長治他訳, みすず書房, 2009.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582702414/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ 音楽・メディア論集</a>』 渡辺裕編, 村田公一・吉田寛・舩木篤也訳, 平凡社, 2002.</li>
</ul>
</div>

<div class="content">
<h4 id="adorno_philosophy">2. 哲学・認識論的著作</h4>

<ul class="disc">
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003369211/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">啓蒙の弁証法: 哲学的断想</a>』 ホルクハイマー共著, 徳永恂訳, 岩波文庫, 2007.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4878932554/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">否定弁証法</a>』 木田元他訳, 作品社, 1996.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861821665/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">否定弁証法講義</a>』 細見和之・高安啓介・河原理訳, 作品社, 2007.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4624932110/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">本来性という隠語: ドイツ的なイデオロギーについて</a>』 笠原賢介訳, 未来社, 1992.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588004891/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">認識論のメタクリティーク: フッサールと現象学的アンチノミーにかんする諸研究</a>』 古賀徹・細見和之訳, 法政大学出版局, 1995.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875592051/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">フッサール現象学における物的ノエマ的なものの超越</a>』 服部健二・青柳雅文訳, こぶし書房, 2006.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861820944/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">道徳哲学講義</a>』 船戸満之訳, 作品社, 2006.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089683/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">三つのヘーゲル研究</a>』 渡辺祐邦訳, ちくま学芸文庫, 2006.</li>
<li>「哲学のアクチュアリティー」 大貫敦子訳, 『現代思想 特集アドルノ―モダニズムの往還』1987年11月号, 青土社, 1987.</li>
<li>「自然史の概念」 細見和之訳, 『みすず』1992年5月号, みすず書房, 1992.</li>
</ul>
</div>

<div class="content">
<h4 id="adorno_sociology">3. 社会学的著作</h4>

<ul class="disc">
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480082476/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">プリズメン: 文化批判と社会</a>』 渡辺祐邦・三原弟平訳, ちくま学芸文庫, 1996.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588099159/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">ミニマ・モラリア: 傷ついた生活裡の省察</a>』 三光長治訳, 法政大学出版局, 1996.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309241328/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">社会科学の論理: ドイツ社会学における実証主義論争</a>』 ポパー共著, 城塚登・浜井修・遠藤克彦訳, 河出書房新社, 1992.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J9OFE4/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">ゾチオロギカ: 社会学の弁証法</a>』 三光長治・市村仁訳, イザラ書房, 1970.</li>
</ul>
</div>

<div class="content">
<h4 id="adorno_letters">4. 書簡集・講演等</h4>

<ul class="disc">
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120043150/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">自律への教育</a>』 原千史訳, 中央公論新社, 2011.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794962703/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">ベンヤミン アドルノ往復書簡 1928-1940</a>』 ベンヤミン共著, 野村修訳, 晶文社, 1996.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622002531/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ=クシェネク往復書簡 1929-1964</a>』 クシェネク共著, 深田甫訳, みすず書房, 1988.</li>
<li>『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309243800/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">ヴァルター・ベンヤミン</a>』 大久保健治訳, 河出書房新社, 2006.</li>
</ul>
</div>

<div class="content">
<h3 id="secondary">アドルノ・フランクフルト学派についての二次文献</h3>

<ul class="disc">


<li>クリストフ・メンケ 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4275008693/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">芸術の至高性: アドルノとデリダによる美的経験</a>』 柿木伸之, 胡屋武志, 田中均, 野内聡, 安井正寛訳, 御茶の水書房, 2010.</li>
<li>アレクサンダー・ガルシア デュットマン 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901477471/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">思惟の記憶: ハイデガーとアドルノについての試論</a>』 大竹弘二訳, 月曜社, 2009.</li>
<li>マーティン・ジェイ 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006001789/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ</a>』 木田元・村岡 晋一訳, 岩波現代文庫, 2007.</li>
<li>マーティン・ジェイ 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622019477/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">弁証法的想像力: フランクフルト学派と社会研究所の歴史 1923-1950</a>』 荒川幾男訳, みすず書房, 2004.</li>
<li>マーティン・ジェイ 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772003576/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">マルクス主義と全体性: ルカーチからハーバーマスへの概念の冒険</a>』 荒川幾男訳, 国文社, 1993.</li>
<li>細見和之 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062659158/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ: 非同一性の哲学</a>』 講談社, 1996.</li>
<li>細見和之 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/462207124X/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノの場所</a>』 みすず書房, 2004.</li>
<li>ロルフ・ヴィガースハウス 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582762611/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ入門</a>』 原千史・鹿島徹訳, 平凡社, 1998.</li>
<li>小牧治 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4389411489/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ</a>』 清水書院, 1997.</li>
<li>小牧治 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J6U7WG/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノとその周辺: フランクフルト便り</a>』 御茶ノ水書房, 1984.</li>
<li>『アドルノの後期思想の総合的研究: 『否定弁証法』から『美の理論』まで』 科学研究費補助金基盤研究(C)研究報告書, 研究代表者: 三島憲一, 大阪大学, 1997-1999. [<a href="http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/09610043">科研データベース</a>]</li>
<li>徳永恂 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130100432/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">現代批判の哲学: ルカーチ、ホルクハイマー、アドルノ、フロムの思想像</a>』 東京大学出版会, 1979.</li>
<li>徳永恂 『フランクフルト学派の展開: 20世紀思想の断層』 新曜社, 2002.</li>
<li>徳永恂編 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4335150253/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">フランクフルト学派再考</a>』 弘文堂, 1989.</li>
<li>徳永恂編著 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582842194/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ 批判のプリズム</a>』 平凡社, 2003.</li>
<li>三光長治 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588130072/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノのテルミノロギー</a>』 法政大学出版局, 1987.</li>
<li>三光長治 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588100025/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">晩年の思想: アドルノ、ワーグナー、鏡花など</a>』 法政大学出版局, 2004.</li>
<li>藤野寛 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582702406/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アウシュヴィッツ以後、詩を書くことだけが野蛮なのか: アドルノと〈文化と野蛮の弁証法〉</a>』 平凡社, 2003.</li>
<li>藤野寛 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326153458/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ／ホルクハイマーの問題圏: 同一性批判の哲学</a>』 勁草書房, 2000.</li>
<li>竹峰義和 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4787210424/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ、複製技術へのまなざし: 〈知覚〉のアクチュアリティ</a>』 青弓社, 2007.</li>
<li>浜谷直隆 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862230768/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ非同一性への憧憬: 『否定弁証法を読む』</a>』 東京図書出版会, 2006.</li>
<li>杉橋陽一 『ユダヤ的想像力の行方: ベンヤミン・アドルノ論集』 世界書院, 1992.</li>
<li>木田元他 「共同討議 アドルノのアクチュアリティー」 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872333101/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">批評空間 II-12: 共同討議 アドルノのアクチュアリティー</a>』 太田出版, 1997.</li>
<li>村田誠一 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4771013322/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">自然との和解の美学―序説: 西洋近代美学における芸術と自然</a>』 晃洋書房, 2002.</li>
<li>三原弟平 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560024235/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">思想家たちの友情: アドルノとベンヤミン</a>』 白水社, 2000.</li>
<li>大橋良介 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860940083/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">美のゆくえ: カント・ヘーゲル・アドルノ・ハイデッガー</a>』 燈影舎, 2007.</li>
<li>今道友信編 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4831506486/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">西洋美学のエッセンス: 西洋美学理論の歴史と展開</a>』 ぺりかん社, 1994.</li>
<li>ユルゲン・ハーバーマス 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400026401X/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">近代の哲学的ディスクルス (1)</a>』 三島憲一他訳, 岩波書店, 1999.</li>
<li>ゲルハルト・シュベッペンホイザー 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4878933380/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ: 解放の弁証法</a>』 徳永恂・山口祐弘訳, 作品社, 2000.</li>
<li>ローレンツ・イェーガー 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000220381/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ: 政治的伝記</a>』 大貫敦子・三島憲一訳, 岩波書店, 2007.</li>
<li>シュテファン・ミュラー＝ドーム 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861821231/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">アドルノ伝</a>』 徳永恂監訳, 作品社, 2007.</li>
<li>W. R. バイアー 『「批判理論」の批判: ハイデッガー、サルトル、アドルノ、ルカーチ論』 林和弘他訳, 啓隆閣, 1971.</li>
<li>ギュンター・ロールモーザー 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J7AZUE/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">批判理論の貧困: アドルノ、マルクーゼ、ハーバーマスへの内在的批判</a>』 城塚登・竹村喜一郎訳, 理想社, 1983.</li>
<li>ユージン・ラン 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326932392/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">モダニズム・瓦礫と星座: ルカーチ、ブレヒト、ベンヤミン、アドルノの史的研究</a>』 兼松誠一訳, 勁草出版サービスセンター, 1991.</li>
<li>J. シュライフシュタイン 『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J9AU5W/zmz-22/ref=nosim/" rel="nofollow" target="_blank">マルクス主義とフランクフルト学派</a>』 城塚登監訳, 青木書店, 1974.</li>
</ul>
</div>]]>
    </description>
    <category>日本語で読めるアドルノ文献</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E%E6%96%87%E7%8C%AE/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E%E6%96%87%E7%8C%AE</link>
    <pubDate>Mon, 17 May 2010 13:54:44 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>I.7. 芸術の享楽 (3)</title>
    <description>
    <![CDATA[ ところで、主観的感覚をあらゆる美の根拠として事あるごとに主張してきた美学がそうした感覚を真剣に分析しなかったということは奇妙なことだ。そうした感覚の記述は否応なく、ほとんど卑俗なものであった。それはもしかしたら、主観的という出発点があらかじめ目くらましとなり、芸術家の経験が十分根拠のあるものとされうるのは、ただ事実との関係のなかであって、芸術愛好家の楽しみにおいてではないということが見落とされていたためかもしれない。芸術享受という概念は、社会的な存在としての芸術作品と社会に対するアンチテーゼとしてのその存在の間をとった、たちの悪い妥協の産物である。もし芸術が始めから自己保存の営みにとって無益なものであったとしても―市民社会はそれが無益であることをけっして許しはしないので―、少なくとも芸術は、感覚的快に倣って作られた、ある種の使用価値でもって自らが有用であることを証さねばならない。それとともに、感覚的快のみならず、それの美的な代弁者がけっして与えることのない肉体的充足までもが偽造される。感覚的に識別することのできない人、鈍い音から美しい音を、さえない色から鮮やかな色を区別する能力をもたない人はほとんど芸術を経験することができないということが実体化されているのだ。芸術経験が高まると、自身のうちに鋭敏な感覚を形式することを促すものとして授かることがあるかもしれないが、その際、快楽はろ過されるのである。芸術における快楽の重みはさまざまに変化した。ルネッサンスのように、禁欲的な時代の後に来る時代において、快楽は解放のための手段(オルガン)であり、生き生きとしたものであった。ヴィクトリア朝的なものに反発した印象主義の場合もそれに似ている。一方で、ときおりエロティックな魅力が諸形式のなかに行きわたりながらも、被造物の悲しみが形而上学的な内容として露わになることもあったのだが。だが、快楽の契機が退行しようとする力はとても強力なので、それが芸術のなかに文字通りまっすぐ現れる場所では、そこにはなにか幼児めいたものが留められている。ただ追憶や憧れのなかにおいてのみ、写されたものはなく直接的な効果として、快楽は芸術によって吸収される。むき出しの感覚に対するアレルギーが結局、快楽と形式がいまだより直接的に通じ合うことができた時代を退けてしまう。印象主義がこのむき出しの感覚を持っていたからこそ、印象主義からの離反がもたらされたのかもしれない。（石田）]]>
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    <category>『美学理論』 翻訳</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E3%80%8E%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E7%90%86%E8%AB%96%E3%80%8F%20%E7%BF%BB%E8%A8%B3/i.7.%20%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AE%E4%BA%AB%E6%A5%BD%20-3-</link>
    <pubDate>Fri, 23 Apr 2010 12:36:51 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>I.7. 芸術の享楽 (2)</title>
    <description>
    <![CDATA[　物象化された意識が感覚的に直接的なものにおいて人間に与えないでおくものがあり、その代償として、そうした意識は感覚の直接性の領域に、そこには居場所を持たないものを呼び寄せる。芸術作品は感覚的魅力によって消費者の方へすり寄っているように思われるが、芸術作品は消費者から疎外されている。それは商品へと、すなわち、所有されてはいるものの、絶えず失うのではないかと恐れるものへと近づいているのである。芸術との誤った関係は所有権をめぐる不安と結びついている。芸術を所有物とする物神的なイメージは、芸術を所有されうるものとするが、そうした所有物は反省することによって破壊されうるものであろう。そうした態度は、心理上のエコノミーにおいて利点可能な財産とするようなイメージと厳密に一致するものだ。もし芸術がそれ自身の意味からして生成されたものであるならば、その分類についても、享楽の手段以上のものである。なるほど、儀式的な行いの構成要素としてあった芸術作品の魔術的で呪術的な前形態はいまだ自律以前のものであった。しかし、それはまさに聖なるものであり、享受されるものではない。芸術が精神的なものとなることによって文化から閉め出されたという恨みがかき立てられ、消費者向けの芸術というジャンルを生み出したが、その一方でそれとは逆に、それに対する嫌悪感によって芸術家たちはひたすら精神化の一途をたどるよう駆り立てられたのだった。ギリシャの裸身の彫像はピンナップではなかった。モデルネがはるか昔に過ぎ去ったものや異国情緒溢れるものに対して共感を覚えるのも、まさしくそれと同じ観点から説明できる。芸術家が反応を示すのは、欲求の対象としての自然物から抽象化されたものなのだ。ところで、ヘーゲルは＜象徴的芸術＞を構成するにあたって、アルカイックなものに見られる非感性的な契機を見逃さなかった。芸術における快の契機とは、広汎に行き渡った商品の性格に対する異議であるのだが、芸術自体の方法によって伝達しうるものなのである。芸術のなかに自身を消滅させる者は、そうすることによって、常に足りないもの、みすぼらしい生から逃れる。そうした快は陶酔にまで達することがある。それに対して、享楽という貧弱な概念は陶酔に達することがない。芸術の陶酔には享楽の習慣から逃れさせるものというのがふさわしい。（石田）]]>
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    <category>『美学理論』 翻訳</category>
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    <pubDate>Fri, 23 Apr 2010 12:24:09 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>I.7. 芸術の享楽 (1)</title>
    <description>
    <![CDATA[　判別しづらいものになってはいるが、享楽はカントの無関心性に覆い隠されている。おそらく、現実の快楽をモデルとして芸術を享受する際に、一般的な意識や従順な美学が思い描くようなものなどは、そもそも存在しないのである。そのようなものとされる芸術の経験において、経験する主体はただ限定され修正されたかたちで関与しているにすぎない。そして、作品のレベルがより高ければ高いほど、快楽は減少する。芸術作品を具体的に楽しむ者は俗物であり、「耳のご馳走」といった言葉づかいは俗物の証である。しかし、この享楽の最後の痕跡が失われるならば、それでは芸術はそもそも何のためにあるのかという問いに困惑させられることになる。実際、芸術を理解するようになればなるほど、それを享受することは少なくなる。芸術作品に対する伝統的な態度ですら、それが徹頭徹尾芸術作品に関わるときには、むしろ感嘆という態度を示した。すなわち、作品が鑑賞者のためではなく、それ自体で存在しているということに感嘆したのである。芸術作品を前に鑑賞者の目を開き、我を忘れさせるのが芸術作品の真実であった。それは、カフカのようなタイプの作品において他の契機を凌駕しているような真実なのである。そうした作品はけっして、より高級な嗜好品といったものではなかった。芸術との関係とは、断じて芸術を自身に吸収するというものではなく、逆に、鑑賞者がモノのなかに消滅するという関係であった。このことは、映画のなかの機関車のように鑑賞者に迫って来る、現代の作品の場合においてはますますあてはまることだ。もし、音楽家に向かって音楽が喜びをもたらすかどうか尋ねたならば、彼はむしろ、トスカニーニの指揮のもとでしかめっ面をしているチェロ奏者をからかったアメリカのジョークよろしく、「私は音楽なんか嫌いだ」と答えることだろう。芸術との本物の関係、すなわち、自身を消滅させるという関係を結んでいる人にとって、芸術とは客体ではない。芸術から引き離されることは彼にとって耐えがたいことであろうし、個々の表現は彼にとって快楽の源ではないのだ。世間ではよく芸術から何も得るものがないと言われるが、そうだとすれば何人たりとも芸術と関わらないだろう。しかし、それでいてなお、そこから「今晩は第九を聞いて、大いに楽しんだ云々」とまとめてしまうならば、それは誤りになるだろう。そうした馬鹿げたもの言いが、これまでに常識としてまかり通ってきたのである。世間の人々は芸術が豊かであり、生活が禁欲的であることを願うが、これは逆であったほうが良いだろう。（石田）]]>
    </description>
    <category>『美学理論』 翻訳</category>
    <link>http://theodoradorno.blog.shinobi.jp/%E3%80%8E%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E7%90%86%E8%AB%96%E3%80%8F%20%E7%BF%BB%E8%A8%B3/i.7.%20%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AE%E4%BA%AB%E6%A5%BD%20-1-</link>
    <pubDate>Fri, 23 Apr 2010 12:10:22 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>I.6. カントとフロイトの芸術理論 (3)</title>
    <description>
    <![CDATA[カントの芸術理論の弱点と相即的なことだが、フロイトの芸術理論は考えられているよりもはるかに観念論的なものである。フロイトの芸術理論は芸術作品を純粋に心的内在にしてしまうのであり、このことによって芸術作品は非我に対するアンチテーゼとしての役割を奪われることになる。非我は、芸術作品の持つ棘からの攻撃を受けないままであり続ける。そして、芸術作品は、衝動の断念を成し遂げる心的能力に、つまり結局のところは適応という心的能力に解消される。<br />
<br />
美的解釈における心理主義は、対立関係を調和的に静めるものとして――つまり、より良い生の理想像として――芸術作品を見る俗物的な見かたと少なからず同調する。その際、そのような理想像が引き出されてきたところの良からぬ生については考えられていない。精神分析は芸術作品を有益な文化財として見る広く行き渡った見かたを順応主義的に借用するのであるが、そのような借用と美的快楽主義とは相通ずるものがある。と言うのも、美的快楽主義は、芸術に由来する全ての否定性を芸術が成立する際の葛藤のうちに追いやってしまうのであり、結果としてその否定性を秘匿することになるからだ。芸術作品はその単なる実在性によって現に存在するものから隔離されたものであり、現に存在するものを踏み越えるものなのであるが、獲得される昇華と統合こそ芸術作品を芸術作品たらしめるものだとしてしまうと、芸術作品はそのような踏み越えのための力を失うことになる。<br />
<br />
しかし、芸術作品のふるまいが現実の否定性との結びつきを固持し、現実に対する立場を明らかにするなら、無関心性の概念もまた変質する。芸術作品は、カントの解釈にもフロイトの解釈にも反して、それ自身のうちに関心と関心に対する拒絶の関係を含んでいる。行為の対象から無理に引き剥がされたものとしての芸術作品に対する観想的態度は、直接的実践と絶縁したものでありつつ、なおかつ〔直接的実践への〕加担に抵抗するかぎりにおいてそれ自体実践的であるものとして自覚されている。〔現実に対する〕態度のとり方として感知しうる芸術作品だけが存在理由［raison d'&ecirc;tre］を持つ。芸術は、今日まで支配的である実践よりも良い実践の代理者であるのみならず、それと全く同様に、既存のものの渦中にありつつ同時に既存のもののためのものでもある野蛮な自己保存の支配としての実践に対する批判でもある。芸術は、芸術そのもののための制作が虚偽であることを明らかにし、労働の呪縛を超えたところにある実践の位置を選択する。幸福の約束［promisse du bonheur］という言葉は、従来の実践が幸福を偽っているということ以上のことを意味している。つまりその言葉は、幸福は実践を超えたものであるのかもしれない、ということをも意味しているのだ。実践と幸福のあいだに横たわる深淵は芸術の中にある否定性の力によって正しく測定されるのである。<br />
<br />
たしかにカフカの作品は欲求能力を呼びおこすものではない。しかし『変身』や『流刑地』のような散文作品に応える生々しい不安――ぞっとする衝撃や身体を震わせる吐き気――が反発として関わるのは、かつての無関心性よりもむしろ欲求なのだ。カフカの作品とそれに続くものは無関心性を無効にする。カフカの著作に対しては無関心性はひどく不適当だろう。無関心性は、ついには芸術をヘーゲルがあざけるものに、つまりホラーティウスの『詩論』における喜ばしく有益な玩具に貶めてしまう。<br />
<br />
観念論期の美学は、芸術自体と並行しつつ、無関心性から自由になっていった。芸術的経験が自律的であるのは、ただ芸術が享楽的な趣味を捨て去るところにおいてのみである。芸術への道は無関心性を通り抜けてきたのであり、料理やポルノグラフィからの芸術の解放はもはや取り消し不可能である。しかし、芸術は無関心性のうちに落ち着くようなものではない。無関心性は、内在的に関心を再生産し変容させるものなのだ。偽りの世界の中では、あらゆる快楽［'ηδονή］は偽りである。幸福のために幸福を断念する。そのようにして欲求は芸術の中で生き延びるのである。<br />
<br />
<div style="text-align:right">（松永伸司）</div>]]>
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    <category>『美学理論』 翻訳</category>
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    <pubDate>Tue, 07 Jul 2009 15:52:30 GMT</pubDate>
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