忍者ブログ
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

美的な快楽主義における真理の契機は、芸術においては手段が目的にまるきり埋没してしまうわけではないということによって裏付けられている。手段と目的の弁証法において、手段はつねにいくばくかの自律性をも維持し、しかも媒介されている。感覚的に快いものによって、芸術に本質的なものであるような現象が統合される。アルバン・ベルクの言葉に従うなら、形作られたものから釘が突き出ておらず膠が匂わないということにも、ひとかけらの即物性がある。そして、多くのモーツァルト作品の表現の甘美さは、声の甘美さを呼び出すものだ。すぐれた作品において感覚的なものは、それらの作品のもつ術Kunstによって閃きながら精神的なものになる。逆に作品の精神によって、いかに現象には無頓着であろうと、抽象的な一個の物は感性的な輝きを獲得するのである。それ自体で細部まで完全に形作られ表現された芸術作品は、その組織化された形式言語によって、二次的にだが感覚的に快いものを帯びることがある。不協和音、すなわちすべてのモデルネ芸術の印は、その視覚的等価物においても同様だが、そうした魅惑の感覚をそのアンチテーゼ、すなわち苦痛へと変容する形で許容している。これこそ両価性Ambivalenzの美的原現象である。ボードレール、『トリスタン』以降の新芸術に対するすべての不協和音の見極めがたい射程は――まことに不協和音はモデルネの芸術の一種の不変数である――次のことに由来する。すなわち、芸術作品が主観に及ぼす力は自律している。しかるに、その芸術作品の自律性が高まるのとパラレルに、芸術作品の内在的作用反作用は、外の現実とともに不協和音へと収斂していく。不協和音が内側から芸術作品にもたらしているのは、通俗的な社会学が芸術作品の社会的疎外と呼んだものだ。これまでのところ言うまでもなく、芸術作品は精神に媒介された心地よさを通俗的な心地よさにあまりにも似ているとしていまだタブー視している。そういう展開が進めば、感覚のタブーはさらに強まるのかもしれない。このタブーがどこまで形式法則に基づき、どこまでたんに技巧の欠陥に基づくものなのかを区別するのは難しいことだが。ちなみにこういう区別の問題は、美学論争に登場するものの、あまり実を結ばないような似たりよったりの多くの問題のひとつだ。感覚のタブーは結局さらに快いものの反対項にも及ぶ。というのも快いものは、それがどんなに遠く隔たっていても、それの特定の否定において共に感じられるからである。そのような反応の形式ゆえに、不協和音は自らの反作用つまり協和にあまりにも近いものになる。不協和音は非人間性のイデオロギーにすぎない人間的なものの仮象にたいして冷淡で、むしろ具体化された意識の側につく。不協和音は、無反応の物質に冷え固まり、直接性の新しい形態になる。この直接性の新しい形態は自分がどこから生まれ来たったのかという記憶の痕跡を持たず、しかもそこにはとんと構わず質を欠いている。芸術がもはや場を持たず、芸術に対するどのような反応も狼狽えたものになってしまうような社会では、芸術は物として凝固した文化財と、顧客が獲得するような、たいてい対象とはほとんど関係のない欲望充足の快楽とに分裂する。芸術作品における主観的快は、対他存在の総体性としての経験から放免されたものの状態に接近し、そうした経験には接近しないだろう。ショーペンハウアーは最初にそのことに気付いていたのかもしれない。芸術作品に接して得られる幸福は不意に逃れ去ってしまったものであり、芸術がそこから逃れ去ったものの残り滓ではない。その幸福は、つねに偶然的なものでしかなく、芸術にとっては芸術を認識することの幸福よりも非本質的なものである。構成的なものとしての芸術享受の概念は廃すべきである。ヘーゲルの洞察によれば、美的対象についてのすべての感情には偶然的なもの――たいていは心理的な投影である――が貼りついていて、その偶然的なものが観察者に認識を、しかも正しさの認識を要求する。つまり偶然的なものは、自分の真実と虚偽に気付かれるよう欲している。美的な快楽主義に対抗しうるのは、カントがどこか予断を含ませながら芸術を除外した崇高論の例の箇所であろう。芸術作品における幸福とは、おそらく芸術作品が伝える抵抗の感覚でありうるだろう。このことは、個々の作品よりも、むしろ全体としての美的な領域にあてはまる。
(鈴木賢子)

PR
コメントを書く
名前
タイトル
コメント
編集キー
この記事にトラックバックする: