I. 芸術、社会、美学1. 芸術の自明性の喪失
今日、芸術に関して自明であることはもはや何ひとつないということが自明になった。芸術の内部や芸術の社会全体との関係においてだけでなく、その生存権すら自明ではないのである。反省や問題意識なしに行われ得るものの喪失は、反省の対象となるべき生成され得るもの(möglich Gewordene)の開かれた無限性によって、補償されるわけではない。拡大は多くの分野において収縮として現れる。1910年頃に革命的な芸術運動が予感さえ及ばない海へと漕ぎ出して行ったが、その海も約束されていたような冒険的な幸運を与えることはなかった。そのかわり当時解き放たれた過程は、その名のもとで始められた諸範疇を侵食していった。新しくタブー化されたものの渦へと引きずり込まれるものは常に増加していた。芸術家たちは至るところで、新しく勝ち取られた自由の王国に対してよりはむしろ、直ちに再び名義上の、支柱がないも同然の秩序を得ようと努めることにこそ、喜びを感じたのである。なぜなら芸術という一つの項目における絶対的自由は、社会全体における頑強なまでにはびこる不自由な現況と、矛盾に陥るからである。かくして芸術の立ち位置は不確かなものとなった。芸術が求めていた自律性は、礼拝的機能とその残像を振り払った後は、人間性という理念を糧とするようになったが、社会が人間性を失っていくに従い、芸術の自律性も破壊されていった。人間性という理想から芸術に帰された、芸術において本質を形成するものは、芸術独自の運動法則により色あせてしまった。確かに芸術の自律性は、取り消しが効かない。芸術が疑っているもの、疑いを表明しているものを、芸術の社会的機能によって取り戻そうとしたあらゆる試みが失敗に終わった。そして、芸術の自律性は、盲目性という契機を誇示し始めている。これは以前から芸術に特有のものであった。すでにヘーゲルの洞察によって明らかなように芸術が素朴でないこと(Unnaivetät)を顧慮せずとも、芸術の解放の時代においては盲目性が他の契機を覆いつくしてしまうのである。素朴でないことは、素朴さの第二の可能性、すなわち、美的目的の不確かさと結びついている。不確かであるのは、芸術はそもそもまだ可能であるのか、芸術は完全に解放された後、その前提条件を掘り崩し、失ってしまったのではないかということである。そうした問いは、かつての問いに端を発してきたものである。そもそも芸術作品は経験的世界の外へと赴き、それとは正反対の自身の本質を持つ世界、あたかも実在しているかのように世界を生み出すのである。それゆえ、それがどんなに悲劇的に振舞うにせよ、その世界はアプリオリに肯定的な傾向を持つ。芸術の慰めの反映(Abglanz)は現実にも広く行き渡るといったクリシエは、不快なものである。しかしそれは、そうしたクリシエが芸術という強調された概念を、芸術にブルジョワ的な装備を与えることでパロディ化するから、あるいは、それが芸術を慰めとしての日曜日の催しへと組み入れるから、という理由のみによるわけではない。そうしたクリシエは、芸術の傷それ自体に触れるものでもある。神学、救済の真実への尽きることのない要求を避けがたく棄却することによって、すなわち、芸術がそれぬきには発展し得なかったところの世俗化によって、芸術は、存在するもの(Seiende)、存続するもの(Bestehende)に慰めの言葉を与えることを余儀なくさせられている。その言葉は他なるものへの希望を欠き、芸術の自律性が解放されたいはずのその呪縛を、却って強化してしまう。自律性の原理それ自体が、そのような慰めの言葉であるという疑いもあるのだ。その原理が、それ自体から全体性を、つまり欠けるところのないもの、それ自体完結しているものを想定することによって、そのイメージ(Bild)は芸術が存在するところの世界、芸術を成熟させるものとしての世界へと転用されるのである。経験を拒絶することで―そしてこの拒絶は芸術の概念においては単なる逃亡ではなく、芸術に内在する法則でもあるのだが―芸術は経験の優位を承認するのである。ヘルムート・クーンは芸術を賞賛するある論文において、いずれの芸術作品も(経験への)賛辞であると証明した。彼のテーゼは、それが批判的である限りは真実といえよう。現実が異常に発育した姿に直面して、芸術の是認的本質―それは芸術にとって不可避的なのだが―は耐え難いものとなった。芸術は自身の概念を形成するものに対抗せざるを得ず、それにより最奥部の細かな繊維に至るまで不確かなものとなる。しかし、芸術は抽象的な否定によって片付けられるべきものではないだろう。芸術は、伝統全体を通して、芸術の地層として保証されると思われていたものに着手することによって質的に変化し、芸術の側に立ちながらも他の何かになるのである。芸術に他なるものになるのが可能であるのは、存続しているものの要素の形成がその存続の援助となったのと同様に、時代を貫き、芸術の形式の力で、単に現存し、存続するだけのものに対抗するからである。芸術は、慰めの一般的な決まり文句にも、またその逆のものにも帰されることはほとんどないのである。
(水田)
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