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2. 根源への問いに対して

 芸術はその概念を、歴史的に変化する諸契機の布置に有している。それゆえ概念は自ら定義することを拒否する。芸術の本質は、その起源からして演繹不可能である、それはあたかも、続くあらゆるものが始めのものに基づく地盤となり、それがぐらつくとすぐに崩れ落ちてしまうようなものである。
 初期の芸術作品が最も高次で純粋なものであるという信念は、遅れてやってきたロマン主義に過ぎない。そして、ごく初期の芸術めいた作品が、呪術や、歴史的記録から未分化だからといって、また叫びや吹奏音によって広範囲に連絡をとりあうというような実践的な目的から未分化だからといって、不純であって純粋ではないということもまた、わずかな正当性によっても是認され得ないだろう。擬古主義の着想は好んでこのような論証を用いた。大まかに、歴史記述において資料は歴史的に曖昧になる。
 芸術の歴史的な起源を存在論的に、ある一つの究極の動機に包括するという試みは必然的に、〔実際との〕乖離のうちに、失敗に終わるが、この場合、理論にとっては、次のような洞察——もちろん重要な洞察であるが——以外何も残らない。つまり諸芸術は、芸術を矛盾なく同一性のうちに整理することはできないという洞察である。美的な初期のものαρχαιに費やされる考察において、実証主義的な資料収集と、普段は学問とはそぐわないような推測が、並存してはびこっている。J.J.バッハオーフェンは、もっとも顕著な例であろう。
 そのような考察に代わって、哲学的な慣習に従い、いわゆる根源への問い(Ursprungsfrage)を、本質的な問いとして、原始への発生学的な問いから区別しようとするなら、この根源(Ursprung)の概念を、その意に反するような語義に反して利用することになり、恣意的に述べていることになってしまう。芸術が何であるのかの定義はいつも、芸術がかつて何であったかという前もって定められたことに基づくのであるが、しかし〔ということは〕芸術の定義は、芸術が何のために生み出されるのか、ということについてのみ証明されるにすぎないのであって、それが何になろうとしているのか、そして何になりうるのかということについては未決定である。芸術の定義と単なる経験的なものとの違いは認められるべきであるが、芸術はそれ自体質的に変化する。かつては芸術ではなかった多くのもの、例えば礼拝的な図像が、歴史とともに芸術になり、〔逆にかつて〕芸術であったが、もはや芸術ではない。浅はかに導かれる問い、すなわち映画のような現象が芸術であるのか否かという問いは、あまり意味がない。芸術において生成されたものによって、芸術の概念は、芸術が含んでいないものへとしむけられる。
 芸術ではなくなったものと、芸術の過去との緊張関係によって、いわゆる美的な構成についての問いは明確に限定される。芸術は、その変化の法則に関してのみ説明可能なのであって、不変の法則によるのではない。芸術は、芸術ではないものとの関係において規定される。芸術の中にある、特有の芸術らしさは、芸術以外のものに由来し、つまり内容的に導かれなくてはならない。それだけが、唯物論的—弁証法的な美学の要求を満たすであろう。芸術が自らを詳細に示すのは、芸術が生じたところから、それによって自分自身を特化することにおいてである。芸術の変化の法則が、芸術の特有な形式法則である。芸術は芸術以外のものとの関係においてのみ存し、芸術以外のものとの係争である。再編された美学にとって自明な事は、後期のニーチェが伝統的な哲学に抗して展開した認識——すなわち生成されたもの(Gewordene)もまた真実でありうるということ——である。伝統的な見解、すなわちニーチェによって破壊された見解は、逆転させるなら、真実はただ出来上がったものとしてのみあるということである。芸術作品に関してそれ自体の法則性として現れるものは、世俗化が進行するまっただ中での芸術のあり方と同様に、内在的な技術的進化の後にくる産物である。それにもかかわらず、疑いもなく、芸術作品はその根源を否定することで芸術作品となった。芸術は、遡って芸術がなにから生じたのかということについて無に帰したのだから、芸術に対して、昔それがいかがわしい魔術、賦役、気晴らしと依存関係にあったという不名誉を原罪として突きつけるべきではない。卓上の音楽(Tafelmusik)が解放された音楽にならざるを得ないわけではないし、また卓上の音楽が人間に畏怖の念を起こさせる礼拝音楽——自立的な芸術は罪深くも礼拝音楽から逃れた——であったわけでもない。今日人類が芸術として獲得しているあらゆるものの圧倒的な大部分が、あのような喧噪の残照だからといって、[自律的]芸術の蔑むような擬音(Klappern)がよりよいというわけではない。
 (吉田)
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