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 経験的現実との関係において、芸術作品は、救済の状態においてはすべてがあるがままに存在し、それにもかかわらずすべてがまったく異なって存在するという神学上の議論を想起させる。見間違えようもないのは、宗教的な領域を世俗化する世俗性の傾向と[芸術と]の類同だ。その傾向において、宗教的な領域は独りで世俗化をなんとか維持しているところにまで行き着く。宗教的領域はいわば杭で囲まれて対象化される。というのも、宗教的領域固有の偽りの契機は、世俗化を祓いつつはねつけているのとまったく同様に世俗化を待ち受けているからである。したがって、芸術の純粋な概念はしかと固定されたひろがりではなく、一時的かつ壊れやすいバランスにおいてそのつど初めて作り出される。このバランスはただ比較対照されるにとどまるものではなく、自我とエスの心理学的なバランスのようなものである。自身に反発するプロセスは絶え間なく更新されざるをえない。あらゆる芸術作品はひとつの瞬間である。あらゆる成功した作品はひとつの平衡であり、すなわち、そのような平衡として芸術作品がゆるぎない目の前に顕現する、[自己反発のプロセスの]一瞬の停止である。芸術作品はそれら固有の問いに対する応答であるので、そのことを通じて芸術作品自体がいよいよもって問いになるのである。
 芸術を美的なものとしては見ない、あるいはそんなもの以前のものとして見る傾向は、今日に至るまで教養教育の害を被らなかった。もっとも芸術はといえば、そうした教養教育をよくすることはなかったのであるが、こうした傾向は野蛮な遅滞とか逆行している人々の意識の貧困であるというだけではない。何か芸術の中にあるものが、この傾向に歩み寄っているのだ。芸術が厳密に美的に見られるならば、美的な意味では正しく見られていない。唯一、芸術の他者が、芸術を経験する最初の層の一つとして思い致される場合にのみ、芸術は昇華されうるのであり、物の身分から解放されるのである。とはいえ、芸術が自らのためにあるということが無碍にされるということではない。芸術は自らのために存在するのであり、かつそうではない。自分とは異質なものをなくせば、芸術は自律を逸するのである。忘却に埋もれないで生き残っている偉大な叙事詩は当時、歴史的な報告や地理的な報告をまじえていた。名人ヴァレリーがつくづく嘆いたのは、ホメロスや異教的ゲルマン叙事詩そしてキリスト教叙事詩のうちで、形式という法則に適合するよう鋳直されていないものが、混じりけのない[芸術の]産物に対してその位を下げることなしに、どれほどの数、自らの地位を維持できるのかということであった。悲劇からは美的な自律の理念が引き出されてくるようにも思えるが、[悲劇においても]これと似たようなものだった。悲劇は現実の作用連関として考えられる祭祀行為の名残である。自律の進歩史としての芸術の歴史は、そうした[異質な]契機を根絶することができない。そしてそれは、たんに芸術が鎖でそれにつながれているから、ということだけではない。リアリズム小説がその形式において頂点を極めたのは19世紀のことであったが、その時でさえも、その後いわゆる社会主義的リアリズムの理論によってリアリズム小説が計画的に貶められてしまったものの片鱗を既に持っていたのだ。すなわちルポルタージュである。そのことはその後社会科学が探求しようとしたものの先取りであった。『ボヴァリー夫人』における言葉を彫琢することへの熱狂はおそらく、まさにそうした熱狂とは反対の要素の機能である。両者の統一は芸術作品のうちしおれることのないアクチュアリティである。芸術作品の規準は二重の性質を持っている。すなわち、芸術作品が素材の層とディテイルを芸術作品に内在的な形式法則に統合し、かつ、そのような統合において形式に矛盾するものを、たとえ不純物が混ざったままでもうまい具合に維持できるのかどうかという規準である。統合自体が作品の質を保証しているのではない。芸術作品の歴史においてはこの双方の契機が何度も繰り返し分離して現われる。というのも、いかなる選り抜きのカテゴリーも、形式法則のなかで美学的に中心となるカテゴリーでさえも、個別的なカテゴリーでは芸術の本質を名指すことはないし、芸術の所産にかんする判断には不十分だからである。芸術はその確立された芸術哲学的概念とは矛盾する諸規定を本質的に有している。ヘーゲルの内容美学は、芸術が他者を含んでいるという芸術に内在的な先刻の契機を見抜き、そして形式美学を追い越した。形式美学は一見するともっと純粋な芸術の概念を操作しているし、なるほど果たしてヘーゲルやキェルケゴールの内容美学に阻まれているような歴史的展開を解き放っている。例えばそれは非対象絵画にいたる歴史的展開である。芸術の内在的な契機としての他者性を見抜いておきながら、形式を内容として考えるヘーゲルの観念論的弁証法は、美的である以前の粗野な状態に退行してしまう。ヘーゲルの弁証法は素材を描写レベルであるいは論証レベルでどう扱うかということと、芸術にとって本質構成的な他者性とを取り違えている。ヘーゲルは、いわば美学についての自分の弁証法的考え方に違反しているのだが、そこから彼には予想もしなかった結果が生まれてしまった。彼は芸術から[プロイセン]支配権力イデオロギーへの俗物的な移行を助長したのだから。逆に芸術における現実ではないもの、存在していないものの契機は、存在しているものの契機に向かい合っていて[そこから]自由ではない。前者の契機は恣意的に設定されないし、因習の望みどおりに創案されるものではなく、存在しているものの間の釣り合いから成り立っている。この釣り合いそれ自体は、存在しているものに、そうした存在の不完全性、貧困、矛盾そしてその潜在的可能性に迫られて生じているものであり、なおかつ、こうした釣り合いにおいてもまだ現実の様々な連関があとを引いている。芸術はその他者に対して、磁石と鉄の鑢屑のような関係にある。その構成要素だけではなく、その構成要素の布置、すなわち、概して芸術の精神に認められているかの独特に美的なものもまた、他者を振り返って指し示すのである。芸術作品が存在している現実と一致するということはまた、芸術作品の[磁石として]中心を形成する力が存在している現実と一致しているということでもある。この力は芸術作品のばらばらのパーツ、存在するものの痕跡を自らの周りに集める力だ。芸術作品は次の原理によって世界と源を同じくしている。この原理によって芸術作品は世界に対して際立たされ、そして精神は[芸術作品だけではなく]世界そのものを準備をしたのだった。芸術作品による綜合はその構成要素に施されるだけではない。この綜合において諸要素は互いに交流するのだが、その限りで綜合自体が一片の他者性を反復しているのである。なにしろ芸術作品の綜合は自らの土台を作品の物質的で精神から離れた側面に持っているのであって、それ自体に持っているのではない。この物質的側面において綜合は働くのである。このことによって形式という美的な契機は、抑圧しないということと結びつく。芸術作品は存在しているものとの差異において必然的に、芸術作品として存在するのではないもの、かつそれをして初めて[芸術作品が]芸術作品になるものと相対的に関係しながら自らを構成している。芸術が意図を持ってはならないという主張は、芸術の下部[物質・他者レベル]の発現に共感しているものとしては歴史の或る時点以降に認められうるものである。「芸術的芸術家」を嘲笑ったヴェデキントにおいて、アポリネールにおいて、そしてもちろんキュビスムの起原においても。この主張は、芸術がそれとは相反するものに関与していることを芸術が無意識のうちに自ら意識していることを露にしている。その無意識的な自己意識が、芸術が純粋に精神的であるという幻想を払いのけるような芸術の文化批判的転換を動機づけたのである。
(鈴木賢子)
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