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6. カントとフロイトの芸術理論

願望充足の理論としてのフロイトの芸術理論にとってアンチテーゼであるのは、カントの芸術理論である。「美の分析論」〔『判断力批判』第一章〕によれば、趣味判断の第一の契機は関心ぬきの満足であるという。ここで関心と呼ばれているのは「我々が対象の実在の表象に結びつけるところの満足」である。しかし「対象の実在の表象」によって意味されているのが、芸術作品においてその素材として扱われる対象なのか、あるいは芸術作品それ自体なのか、明確ではない。それは、かわいらしいヌードモデルなのか、場合によってはキッチュであるところの協和音の甘美な調べなのか、あるいはまた芸術的質の統合的契機なのか。

「表象」を強調することは、的確な意味で主観主義的なカントのアプローチから導かれる。そのアプローチは、はっきり明示されてはいないものの、鑑賞者に対する芸術作品の作用の中に美的質を見出そうとするものであり、それは合理主義の伝統、とくにモーゼス・メンデルスゾーンの合理主義に同調するものであった。『判断力批判』が革命的であるのは、それが従来の作用美学の枠を放棄することなしに、しかも同時に内的な批判によってこの作用美学を局限したことにある。このことは、カントの主観主義が、彼の客観的な志向――主観的契機の分析によって客観性を確保しようとする試み――の中で特別の比重を置かれていたのと同様である。

無関心性は、満足が保持しようとする直接的な作用から距離をとるのであり、このことは満足の優位をくつがえすことにつながる。と言うのも、カントが関心と呼ぶものを欠いた時点で満足は未規定的なものになり、したがって美の定義に関してもはや寄与しないからだ。しかし、関心ぬきの満足という説は、美的なものを前にしては貧弱なものとなる。それは、孤立すればきわめて疑わしくなる形式美に、あるいはいわゆる崇高な自然の事物に、美的現象を還元してしまう。芸術作品を絶対的な形式に純化[Sublimierung]すると、芸術作品に関して精神は軽視されることになるが、作品が純化されるのは精神の中でなのである。この事態について、カントの不自然な脚注が不本意ながらも正直に証し立てしている。「満足の対象についての判断には、なるほど関心を持ってはいない[uninteressiert]が、それでいて関心を引く[interessant]ようなものがありうる。つまり、たとえその判断がいかなる関心にもとづかない場合でも、関心を生み出す場合があるのである」〔『判断力批判』第二節の脚注〕。

カントは、「対象の実在の表象」によって標的にされているであろう欲求能力から、美的感情を――そして、彼の構想にしたがえば、実質的に芸術自体を――切り離す。そのような表象についての満足は「必ず同時に欲求能力に関係づけられている」とされているのである。カントは、美的態度が直接的な欲求からは自由であるとする認識に初めて到達し、それ以来この認識は生き続けている。同時に彼は、芸術を絶えず何度も撫でまわし味見する貪欲な俗物性から芸術を救い出した。にもかかわらず、カントのモティフは心理学的な芸術理論と決して無縁ではない。と言うのも、フロイトにとってもまた、芸術作品は直接的に願望を充足するものではなく、もともと満たされないリビドーを社会的に生産的な働きに変えるものだからである。むろん、この際に、芸術の社会的価値は、芸術の公共的な意義に対する無批判的な敬意において、疑問に付されることなく前提されたままである。

カントは、芸術が欲求能力と異なることを――そして同時に経験的現実と異なることを――フロイトよりもはるかに精力的に主張したが、このことはたんに芸術を観念化するにとどまるものではない。すなわち、美的領域を経験から分離することが芸術を構成する[konstituieren]のだ。しかし、カントは、この構成――それ自体としては一つの歴史的なもの――を超越論的に固定し、単純な論理にもとづいて芸術的なものの本質と同等視した。芸術における主観的に衝動的な諸成分が、それを否定する円熟しきった芸術の形態においてさえ形を変えながら繰り返し現れるということについて、カントは気にも留めなかったのである。

芸術的なものの持つ力動的な性格に対して〔カントよりも〕はるかに率直に理解したのは、フロイトの昇華理論[Sublimierungstheorie]であった。むろん、その代わりに、フロイトはカントと同程度の代償を支払わなければならなかった。カントに沿って、芸術作品の精神的本質は(感性的直観を全面的に優先させるにもかかわらず)美的態度と実践的・欲求的態度を区別することから導き出されるものであるとすれば、フロイトのように美学を衝動説に適合させることは、そのような区別を拒絶するように見える。フロイトにとって、芸術作品は、昇華されたものですら、諸々の感性的な活動の代弁者以上のものではない。芸術作品は、せいぜいのところ、ある種の夢の作業を通して、感性的な活動を識別しづらくしているにすぎない。

(松永伸司)
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