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この二人の異質な思想家――カントは哲学上の心理主義のみならず、年を経るにつれ、あらゆる心理学を拒絶した――を対置するのは、両者が異質であるにもかかわらず、ある点において一致するからである。この一致は、一方は超越論的主観の構築であり、他方は経験上の心理学的なものへの回帰であるというちがい以上に重要である。欲求能力の査定に関して否定的であるか肯定的であるかのちがいこそあれ、両者は原理的に主観に目を向けている。どちらにとっても、芸術作品はその鑑賞者あるいはその制作者との関係においてのみ本来的なものになるのである。

カントもまた、彼の道徳哲学が同様に従属するある種の機械論[Mechanismus]によって、現に存在する個人[das seiende Individuum]、存在的なもの[Ontisches]を考慮せざるを得なかった。それが超越論的主観の観念と調和するレベルを超えているにもかかわらずである。対象に満足を覚える生けるもの[Lebendige]なしではいかなる満足も存在しないのであるから、はっきりと主題化されてはいないものの、諸々の決まり[Konstituta]こそ『判断力批判』全体の舞台である。それゆえ、純粋理論理性と純粋実践理性の架橋として企図されたものは、その両者に対しては異類のもの[αλλογενος]である。

芸術が規定されているかぎりにおいてそれは一つの禁忌に従っている。と言うのも規定は理性的な禁忌に他ならないからだ。たしかに、芸術の禁忌は対象に対して動物的な態度をとること、つまり対象の生々しさを我が物にしようとすることを禁じる。しかし、その禁忌の力に応じて、その禁忌によって縛られている事態の力もまた働く。自己反発的なものを自身のうちに否定的契機として含まない芸術はないのである。〔それゆえ〕無関心が単にどうでもよいということ以上の事態であるべきだとすれば、無関心には極めて荒々しい関心が背後に隠れているはずであるし、また多くの人が同意するように、芸術作品の品位は作品がそこから引き剥がされてきたところの関心の大きさ次第である。カントがこのことを拒絶するのは、常に主観に固有ではないものを他律的なものであるとして非難する自由概念のためである。カントの芸術理論は実践理性についての論が不十分であるせいで歪められている。美なるものを、至上権を持った自我に対していくらかの自立性を持っているか、あるいは自立性を獲得してきたものとして考えることは、カントの哲学の主調にしたがえば、英知界への逸脱として見えてしまうのだ。

しかし、どのような内容[Inhalt]も、芸術がアンチテーゼとしてそこから生まれたところのものともども芸術から切り取られ、その代わりに満足性[Wohlgefälligkeit]と同様に形式的なものが仮定される。ずいぶん逆説的なことだが、カントにとって美学は去勢された快楽主義、つまり快楽ぬきの快楽〔についての論〕になる。この美学は芸術的経験に対して不当なものであると同時に、実際の生々しい関心に対しても不当なものである。と言うのも、芸術的経験において、満足は決してその経験の全体ではないにしろ部分的な役割を演じるものだからであり、一方で生の関心は抑制され満たされない欲求であり、その欲求は芸術の美的否定において共振動する[mitvibrieren]ことを通して形成物を空虚な外形以上のものにするものだからである。

美的無関心性によって、関心はその個別性を越えて拡大することになった。美的な総体[Totaliät]に対する関心は、客観的には、全体[Ganze]の正しい秩序に対する関心であることを望むだろう。それは個々の充足ではなく束縛のない可能性を志向するだろうが、しかしそのような可能性は個々の充足なしではあり得ないのである。

(松永伸司)
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