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カントの芸術理論の弱点と相即的なことだが、フロイトの芸術理論は考えられているよりもはるかに観念論的なものである。フロイトの芸術理論は芸術作品を純粋に心的内在にしてしまうのであり、このことによって芸術作品は非我に対するアンチテーゼとしての役割を奪われることになる。非我は、芸術作品の持つ棘からの攻撃を受けないままであり続ける。そして、芸術作品は、衝動の断念を成し遂げる心的能力に、つまり結局のところは適応という心的能力に解消される。

美的解釈における心理主義は、対立関係を調和的に静めるものとして――つまり、より良い生の理想像として――芸術作品を見る俗物的な見かたと少なからず同調する。その際、そのような理想像が引き出されてきたところの良からぬ生については考えられていない。精神分析は芸術作品を有益な文化財として見る広く行き渡った見かたを順応主義的に借用するのであるが、そのような借用と美的快楽主義とは相通ずるものがある。と言うのも、美的快楽主義は、芸術に由来する全ての否定性を芸術が成立する際の葛藤のうちに追いやってしまうのであり、結果としてその否定性を秘匿することになるからだ。芸術作品はその単なる実在性によって現に存在するものから隔離されたものであり、現に存在するものを踏み越えるものなのであるが、獲得される昇華と統合こそ芸術作品を芸術作品たらしめるものだとしてしまうと、芸術作品はそのような踏み越えのための力を失うことになる。

しかし、芸術作品のふるまいが現実の否定性との結びつきを固持し、現実に対する立場を明らかにするなら、無関心性の概念もまた変質する。芸術作品は、カントの解釈にもフロイトの解釈にも反して、それ自身のうちに関心と関心に対する拒絶の関係を含んでいる。行為の対象から無理に引き剥がされたものとしての芸術作品に対する観想的態度は、直接的実践と絶縁したものでありつつ、なおかつ〔直接的実践への〕加担に抵抗するかぎりにおいてそれ自体実践的であるものとして自覚されている。〔現実に対する〕態度のとり方として感知しうる芸術作品だけが存在理由[raison d'être]を持つ。芸術は、今日まで支配的である実践よりも良い実践の代理者であるのみならず、それと全く同様に、既存のものの渦中にありつつ同時に既存のもののためのものでもある野蛮な自己保存の支配としての実践に対する批判でもある。芸術は、芸術そのもののための制作が虚偽であることを明らかにし、労働の呪縛を超えたところにある実践の位置を選択する。幸福の約束[promisse du bonheur]という言葉は、従来の実践が幸福を偽っているということ以上のことを意味している。つまりその言葉は、幸福は実践を超えたものであるのかもしれない、ということをも意味しているのだ。実践と幸福のあいだに横たわる深淵は芸術の中にある否定性の力によって正しく測定されるのである。

たしかにカフカの作品は欲求能力を呼びおこすものではない。しかし『変身』や『流刑地』のような散文作品に応える生々しい不安――ぞっとする衝撃や身体を震わせる吐き気――が反発として関わるのは、かつての無関心性よりもむしろ欲求なのだ。カフカの作品とそれに続くものは無関心性を無効にする。カフカの著作に対しては無関心性はひどく不適当だろう。無関心性は、ついには芸術をヘーゲルがあざけるものに、つまりホラーティウスの『詩論』における喜ばしく有益な玩具に貶めてしまう。

観念論期の美学は、芸術自体と並行しつつ、無関心性から自由になっていった。芸術的経験が自律的であるのは、ただ芸術が享楽的な趣味を捨て去るところにおいてのみである。芸術への道は無関心性を通り抜けてきたのであり、料理やポルノグラフィからの芸術の解放はもはや取り消し不可能である。しかし、芸術は無関心性のうちに落ち着くようなものではない。無関心性は、内在的に関心を再生産し変容させるものなのだ。偽りの世界の中では、あらゆる快楽['ηδονή]は偽りである。幸福のために幸福を断念する。そのようにして欲求は芸術の中で生き延びるのである。

(松永伸司)
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