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 物象化された意識が感覚的に直接的なものにおいて人間に与えないでおくものがあり、その代償として、そうした意識は感覚の直接性の領域に、そこには居場所を持たないものを呼び寄せる。芸術作品は感覚的魅力によって消費者の方へすり寄っているように思われるが、芸術作品は消費者から疎外されている。それは商品へと、すなわち、所有されてはいるものの、絶えず失うのではないかと恐れるものへと近づいているのである。芸術との誤った関係は所有権をめぐる不安と結びついている。芸術を所有物とする物神的なイメージは、芸術を所有されうるものとするが、そうした所有物は反省することによって破壊されうるものであろう。そうした態度は、心理上のエコノミーにおいて利点可能な財産とするようなイメージと厳密に一致するものだ。もし芸術がそれ自身の意味からして生成されたものであるならば、その分類についても、享楽の手段以上のものである。なるほど、儀式的な行いの構成要素としてあった芸術作品の魔術的で呪術的な前形態はいまだ自律以前のものであった。しかし、それはまさに聖なるものであり、享受されるものではない。芸術が精神的なものとなることによって文化から閉め出されたという恨みがかき立てられ、消費者向けの芸術というジャンルを生み出したが、その一方でそれとは逆に、それに対する嫌悪感によって芸術家たちはひたすら精神化の一途をたどるよう駆り立てられたのだった。ギリシャの裸身の彫像はピンナップではなかった。モデルネがはるか昔に過ぎ去ったものや異国情緒溢れるものに対して共感を覚えるのも、まさしくそれと同じ観点から説明できる。芸術家が反応を示すのは、欲求の対象としての自然物から抽象化されたものなのだ。ところで、ヘーゲルは<象徴的芸術>を構成するにあたって、アルカイックなものに見られる非感性的な契機を見逃さなかった。芸術における快の契機とは、広汎に行き渡った商品の性格に対する異議であるのだが、芸術自体の方法によって伝達しうるものなのである。芸術のなかに自身を消滅させる者は、そうすることによって、常に足りないもの、みすぼらしい生から逃れる。そうした快は陶酔にまで達することがある。それに対して、享楽という貧弱な概念は陶酔に達することがない。芸術の陶酔には享楽の習慣から逃れさせるものというのがふさわしい。(石田)
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