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II. 状況

1. 素材の崩壊

カテゴリーとともに、また素材もそのアプリオリな自明性を失ったが、それは文学の言葉も同じことだった。素材の崩壊は素材の対他存在の勝利である。その最初でかつ強力な証拠としてホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』は有名になった。新ロマン主義文学は総じてそのような崩壊に抵抗し、言語や他の素材にその実体性の幾ばくかを取り戻そうとする試みとしてみなされるかもしれない。だが、[新ロマン主義の]ユーゲントシュティールに対するアレルギーは、その試みが失敗に終わったことの裏返しなのである。カフカの言葉を用いると、振り返ってそうした試みは、積荷のないご機嫌な道行きのように見える。ゲオルゲは『第七の輪』からの一連の作品群の冒頭の詩において、森へ呼びかけて、ただ黄金、紅玉髄といった言葉を並べねばならなかったが、それは彼の文体の原理に従うなら、言葉の選択が詩的に輝くということが望まれてしかるべきだったからだ(1)。『ドリアン・グレイ』の六〇年後、言葉の選択は装飾的な配列として認識されうるようになったが、高貴を尽くした素材が原材料のまま積み上げられたワイルドの『ドリアン・グレイ』にもはや敵うことはなかった。だが『ドリアン・グレイ』に積み上げられた素材は、その極上の唯美主義のインテリアを骨董品店や競売所に似たものにしてしまい、かくしてまさにあれほど嫌った商売に似たものにしてしまう。シェーンベルクもこれと類似のことを述べている。ショパンは楽だった、ショパンはたんに当時まだ使い古されていなかった嬰ヘ長調を使えばよかった、それだけでもう素晴らしかったのだから、と。ところで、歴史哲学的に細かいことを言えば、音楽の初期ロマン主義において、素材は実際ショパン独特の調性のように、未開拓のものの力を放っていたが、それは一九〇〇年ごろすでに「特選品」に堕落してしまっていた。だが彼らの言葉や配置あるいは調性に生じたものは、高尚で神聖なもの一般としての詩文学の伝統的概念を容赦なく襲った。文学は幻想解体のプロセスにひたすら耽るものへと籠ってしまった。その幻想解体のプロセスは文学的なものの概念をすっかり消尽する。そのことがベケットの作品の抗いがたい力を形作っている。 
(鈴木賢子)

(1) Vgl.Stefan Gerge, Werke. Ausgabe in zwei Bänden, hg. Von R.Boehringer, München u. Dusseldorf 1958, Bd.1, S.294(»Eingang« zu »Traumdunkel«)
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