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芸術は自らの自明性の喪失に対して、どのように態度を取り、振舞うかの具体的変化によってのみならず、「芸術は芸術である」という足かせのようなそれ固有の概念を引きちぎろうとすることによって応えるのである。そのことは、低級芸術、あるいは今日文化産業によって管理され、統合され、質的に改変されているかつての低級芸術、あるいは娯楽の中に最も明確に確かめることができる。実際、こうした領域はそれ自体では遅れて生じてきた純粋芸術に従うことは一度たりともたなかったのである。この領域は、あらゆるユーモアがそうであるように、文化が不成功に終わることの証しとして文化に常に入り込み、文化が不成功に終わることをそれ固有の意思としたのである。ユーモアというものはその伝統的な形態と今日的な形態の至福の調和において、それを成そうとするのである。文化産業の策にのせられ、文化産業の商品を渇望する者は芸術とは異なる世界にいる。そのため彼らは現代の社会生活のプロセスに対して―人生に本来的な虚偽に対してではない―芸術が不適当であることに、かつて芸術作品であったものをいまだに反芻し続けること者たちよりも、はっきりと気づいている。彼らは芸術の脱芸術化を強く求める。手を伸ばして触れること、どんな作品にもありのままでいることを禁じ、アレンジして、観者と作品の距離を縮めることへの情熱はそうした彼らの傾向である。芸術と生活との間にある恥ずかしいほどの相違は彼らにとって消滅されるべきものである。彼らは生活し、それを邪魔されたくないのだ。というのも、邪魔されることに耐えられないからである。そうしたことは既得権によって芸術を消費財にするための主観的基礎となる。

それらすべてにもかかわらず芸術は容易に消費可能なものにはならないが、少なくとも芸術との関係が実際の消費財との関係を拠りどころとすることは可能である。そのことは、過剰生産の時代において消費財の使用価値が疑わしくなったこと、「所有している」という威信から生ずる二次的な享楽、結局は商品としての性格それ自体の享楽に、即ち美的仮象のパロディーに屈することによって容易になるのである。

芸術作品の自律性は、芸術作品が芸術作品であると信じられているものより良いものであるとみなされることで、文化顧客を憤慨させるものなのであるが、そうした芸術作品の自律性には、商品の物神的性格、芸術の根源にある古代的物神崇拝への後退しか残されていない。その限りで芸術に対する現代の振る舞いとは後退的なものである。文化商品(Kulturwaren)は他者にとって実際的なものとなることはないが、文化商品においてはその抽象的対他存在が消費される。文化商品は他者の意に従うことで他者を欺くのである。
(水田有子)
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