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観る者と観られるものの間にある古くからの親和的関係は捻じ曲げられる。今日に典型的な振る舞いにより芸術作品が単に事実にされることによって、ものとしての如何なる存在とも相容れない模倣的契機までもが商品として高く売りつけられる。消費者は感情の動き、即ち模倣的残滓を、自分の前にあるものの上に好きなように投影して構わない。ひとつの作品を観、聞き、読んでいた主体は、全体が管理される段階まで自己を忘れ、自己に無関心になり、作品のうちに消え去ることになったのである。主体が遂行する同定は、理想としては、芸術作品を自らと等しくする同定ではなく、自らを芸術作品と等しくするという同定であった。この同定のうちに美的昇華は存する。ヘーゲルはそのような態度を一般に客体への自由とよんだ。まさにそのことによって彼は主体に敬意を表したのであり、そうした主体は精神的経験において自己を放棄することによって主体となる。それは、芸術作品とは何かを与えるものであるという俗物的な要求とは反対のものである。

しかし芸術作品は主体を投影するタブラ・ラサとして変質してしまう。芸術作品の脱芸術化の両極とは、芸術作品が諸々の物のうちのひとつである物になるし、かつ、観者の心理状態の媒体になるということである。物象化した芸術作品は、もはや何かを語らない。観者は標準化された自身のエコーによってそこを埋め合わせる。そのエコーを観者は芸術作品から聞き取るのである。文化産業はこうしたメカニズムを始動させ、利用するのだ。文化産業は、かつて人間とは疎遠であったもの、〔エコーで〕埋め合わせる際に他律的に〔文化産業の〕意のままになるものを、人間に身近なもの、人間の所有物であるものとして出現させる。しかし文化産業に反対する直接的に社会的な論拠ですら、文化産業のイデオロギー的な構成要素を有している。自律的な芸術も、文化産業による権威主義的な屈辱から完全に自由だというわけではない。芸術の自律性は生成されたものであり、これは芸術の概念を構成する。しかし、ア・プリオリに構成されるわけではない。かつて礼拝的作品がゲンス〔同姓同系氏族集団〕に及ぼしていたであろう権威は、もっともオーセンティックな作品において、内在的な形式法則となった。自由の理念は、美的自律性と今日のようなもので、自由の理念を普遍化した権力をたよりに形づくられた。芸術作品もまた同様に形づくられたのである。芸術作品が外的目的から自由になればなるほど、芸術自らが統治し、組織したものとして、芸術作品は自身をより完全に規定した。しかし、芸術作品はそのひとつの面を常に社会に向けているため、芸術作品において内面化された権力までもが外部に向かって放たれたのである。こうした連関を意識すると、芸術の前では沈黙するが、文化産業批判は行うというのは不可能である。しかし、それなりの理由をもって、あらゆる芸術に不自由があることを嗅ぎつける者は、力を抜き、近づきつつある管理体制を前に諦めるという誘惑の中に置かれている。というのも、実際いつもこんなものだ、と考えてしまっているからである。他者の仮象の中では他者の可能性も開けるというのに。

イメージの欠如した世界の只中で、芸術への欲求―それは複製の機械的手段によってはじめて芸術に直面させられた大衆の欲求でもあるのだが―が高まるということは、むしろ疑いを呼び起こす。こうした欲求は芸術の外部にあり、いずれにせよ芸術の存続を擁護するには十分ではない。芸術への欲求が持つ補足的性格、即ち脱魔術化の慰めとして、魔術的なもののなごりである。それは、「欺かれることを欲している世界」の一例として芸術を貶め、芸術のかたちを歪めるのだ。これらの特徴は、偽りの意識による存在論に属するものである。こうした特徴において、精神を制御したと同時に解放した市民階級は、偽りの意識が市民階級に完全には信じさせることのできないものでも、自己自身すら欺いて、精神的に受け入れ、享受するのである。芸術は、社会に現存している欲求に適合するかぎりで、その大部分が利潤によってコントロールされる営みとなってきた。こうした営みは、それが利潤を生み、〔営みの〕完璧さによって自らがすでに死んでいるということをやり過ごすかぎりで進行を続けるのである。伝統的オペラのような繁栄している芸術ジャンルや芸術修養の分野も空疎なものとなった。そのことは公式な文化では見えてはこない。しかし、ただでさえそれ固有の完全の理想を追う困難の中にあるのに、文化の精神的欠如は直接、文化の実際の機能不全に陥る。文化の現実の堕落は見て取れるのである。生産力を強化しながら全体をより高次なかたちへともたらす人間の欲求への信頼は、欲求というものが偽りの社会によって統合され、偽りのものとなって以来、もはや持ちこたえることができない。たしかに欲求は予定どおり再び満たされるが、しかしこうした充足はそれ自身偽りであり、人間から人間であることの権利をだまし取ってしまうものなのである。
(水田有子)
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