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4. 芸術と社会の関係

 美的な屈折には屈折させられるものが不可欠である。同様に、想像には想像されるものが不可欠となる。そのことはまず、内的な合目的性とみなされる。経験的現実との関係において、芸術は、そこで働いている<自己保存>の原則を、芸術が生み出す生産物それ自体の存在の理念へと昇華させる。すなわち、シェーンベルクの言葉によるならば、人は絵を描くのであって、絵が表現するものを描くのではないのだ。それ本来の性質からして、どの芸術作品もそれ自身と同一化しようとする。経験的現実において、その同一性はあらゆる対象を主体によって抑圧されるものとし、それによって損なわれたものにしてしまう。美的な同一性は、現実のなかの同一的強制によって抑圧されている非同一なるものの助力とならねばならない。

経験的現実から切り離されることによってのみ、芸術は自身の必要に従って部分と全体の関係に形を与えることができるようになり、それによって芸術作品は存在の二重映しになるのである。芸術作品は経験的生の模像であるが、それは芸術が芸術作品の外部では拒まれているものを経験的生へと与え、そして、それによって、芸術におけるモノめいた(物象化された)外部の経験が芸術作品を整理しようとすることから芸術自身が解放される限りにおいて、模造であると言えるのだ。芸術と経験との境界線は消し去られえず、わけても芸術家を英雄にすることによっても消し去られることはない。しかし、それにもかかわらず芸術はそれ独自の生を有している。その生は単に芸術作品外部の運命ではない。優れた芸術はつねに新しい層を誇示するが、それは古くなって冷たくなり、やがて死んでしまう。人工物であり、人間によって作り上げられた芸術作品が、人間のような直接的生を営まないというのは同語反復(トートロジー)である。しかし、芸術における人工という契機におかれる強調は、製造されたものという意味よりもむしろ、それ独自の性質の方に向けられている。それがいかに実現されたかということは問題ではないのだ。芸術作品は語るものとしてその生をもつが、それはありのままの客観や、芸術が作り出す主観に対して閉じられているような方法によって語るのである。芸術作品はその内部の個々のもの全てが相互にコミュニケーションをすることによって語るのだ。それによって芸術作品は存在の分散したあり方とは対照的なものとなる。しかしながら、まさしく人工物、社会的な労働の産物として、芸術は自身が拒絶した経験とコミュニケーションをとり、経験からその内容を引き出す。芸術は、経験にカテゴリー上刻印される諸規定を否定するが、それ独自の実質のなかに経験的な存在をしまいこむのである。

芸術は形式という契機によって経験に対抗する。形式と内容の媒介は、それらを区別することなくして捉えられず、ゆえにこの媒介とは、ある程度の普遍性をもって、美的形式とは沈殿した内容であろうという点に求められる。伝統音楽のような、見かけはかなり純粋な形式も、そのあらゆる慣用句的な詳細に至るまで、舞踊のような内容的なものに遡ることができる。多くの場合、装飾品は、かつての礼拝的シンボルであった。美的形式を内容に帰すこと、ヴァールブルク学派は古代の名残を留める特殊な対象についてこれを行っているが、それは、より包括的になされうるかもしれない。幸にして、あるいは不幸にして、芸術と外部のもの、すなわち芸術作品がその前に自らを閉ざしている世界とのコミュニケーションは非―コミュニケーションによって行われる。つまり、そこで芸術はまさしく自身を分断されたものとして示すのである。

自律した王国は、完全に変えられた連関のなかにおかれた借用した要素としての外部世界とのみ関わると考えるのは容易である。それにもかかわらず、以下のような精神史的なありふれた考えは疑いをいれない。すなわち、たいてい形式の概念のもとに要約されるような、芸術家がとる方法の進展は、社会の進展と照応するのだという考えである。もっとも崇高な芸術作品でさえ、特定の立場を経験的現実に対して示すのであるが、それは、決定的にではなく、その都度、具体的に歴史的状況が投げかける呪縛から歩み出て、その歴史的時点へのその立場に対して無意識的に論争的な構えをとることによって、そうするのである。芸術作品が窓のないモナドとしてそれ自身ではないものを「表象する」ということは、以下のことによって理解されるほかない。すなわち、それ固有の力学、それに内在する自然と自然支配の弁証法としての歴史性が、外部の歴史と同じ本質を持つばかりではなく、外部の歴史を模倣することなく、それと似通うのだということによって。美的な生産力は実用的な労働力と等しいものであり、それ自体に同じ目的論を有している。そして、美的生産関係と呼びうるもの、生産力が深く埋め込まれ、それが働いているようなあらゆるものは、社会的なものの沈殿物あるいは刻印なのである。

自律していると同時に社会的事実でもあるという芸術の二重性格は絶えず、その自律性の領域に及んでいる。経験へのそうした関わりのなかで芸術作品は中和されており、かつて人間が文字通り、現存在と離れずに経験したもの、精神がそこからしめ出してしまったものを救い出すのである。芸術作品が啓蒙に参与するのは、嘘をつかないからである。すなわち、芸術作品のうちから語るものの一つ一つが字義どおりであると偽らないからである。しかしながら、芸術作品はその外部からそれに近づいてくる、問いのかたちをしているものに対する答えとしても実在的なものである。芸術特有の緊張は、その外部のものに対する関係において意義深い。芸術を動機づける経験の基層は、それを前に芸術が身を引く、対象となる世界とつながっている。解きほぐすことのできない現実の敵対関係は芸術のなかに繰り返し回帰し、その形式における内在的な問題として現れる。対象となる要素の混入ではなく、これこそが社会に対する芸術の関係を定義するのである。芸術作品における緊張関係はまさしく作品自体のなかに結晶し、外部のもの事実的な上辺から解放されることによって現実の存在を言い当てるのだ。経験的な現存在から<分離した>芸術は、それと同時にカントに対抗するヘーゲルの議論に従う立場をとるものである。しかし、そこに柵が築かれるやいなや、それを築くことによってその柵はすでに踏み越えられ、また、それに対して柵が築かれたものを自身のなかに掴みとるのである。抽象的に否定することによって芸術の<分離>をその唯一至上の指標とする芸術のための芸術の原理への批判となるのは、道徳的な説教ではなく、ただこのことのみである。芸術作品の自由とは、芸術の自意識が誇り、また、それなくしては芸術作品が存在しないであろうものであるが、それは芸術独自の理性の狡知である。芸術のあらゆる要素は、それを越えれば幸福を成就させるのだが、その都度そのなかに再び沈みこんでしまいそうなものに芸術作品をしっかりと結びつける。
(石田)
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 経験的現実との関係において、芸術作品は、救済の状態においてはすべてがあるがままに存在し、それにもかかわらずすべてがまったく異なって存在するという神学上の議論を想起させる。見間違えようもないのは、宗教的な領域を世俗化する世俗性の傾向と[芸術と]の類同だ。その傾向において、宗教的な領域は独りで世俗化をなんとか維持しているところにまで行き着く。宗教的領域はいわば杭で囲まれて対象化される。というのも、宗教的領域固有の偽りの契機は、世俗化を祓いつつはねつけているのとまったく同様に世俗化を待ち受けているからである。したがって、芸術の純粋な概念はしかと固定されたひろがりではなく、一時的かつ壊れやすいバランスにおいてそのつど初めて作り出される。このバランスはただ比較対照されるにとどまるものではなく、自我とエスの心理学的なバランスのようなものである。自身に反発するプロセスは絶え間なく更新されざるをえない。あらゆる芸術作品はひとつの瞬間である。あらゆる成功した作品はひとつの平衡であり、すなわち、そのような平衡として芸術作品がゆるぎない目の前に顕現する、[自己反発のプロセスの]一瞬の停止である。芸術作品はそれら固有の問いに対する応答であるので、そのことを通じて芸術作品自体がいよいよもって問いになるのである。
 芸術を美的なものとしては見ない、あるいはそんなもの以前のものとして見る傾向は、今日に至るまで教養教育の害を被らなかった。もっとも芸術はといえば、そうした教養教育をよくすることはなかったのであるが、こうした傾向は野蛮な遅滞とか逆行している人々の意識の貧困であるというだけではない。何か芸術の中にあるものが、この傾向に歩み寄っているのだ。芸術が厳密に美的に見られるならば、美的な意味では正しく見られていない。唯一、芸術の他者が、芸術を経験する最初の層の一つとして思い致される場合にのみ、芸術は昇華されうるのであり、物の身分から解放されるのである。とはいえ、芸術が自らのためにあるということが無碍にされるということではない。芸術は自らのために存在するのであり、かつそうではない。自分とは異質なものをなくせば、芸術は自律を逸するのである。忘却に埋もれないで生き残っている偉大な叙事詩は当時、歴史的な報告や地理的な報告をまじえていた。名人ヴァレリーがつくづく嘆いたのは、ホメロスや異教的ゲルマン叙事詩そしてキリスト教叙事詩のうちで、形式という法則に適合するよう鋳直されていないものが、混じりけのない[芸術の]産物に対してその位を下げることなしに、どれほどの数、自らの地位を維持できるのかということであった。悲劇からは美的な自律の理念が引き出されてくるようにも思えるが、[悲劇においても]これと似たようなものだった。悲劇は現実の作用連関として考えられる祭祀行為の名残である。自律の進歩史としての芸術の歴史は、そうした[異質な]契機を根絶することができない。そしてそれは、たんに芸術が鎖でそれにつながれているから、ということだけではない。リアリズム小説がその形式において頂点を極めたのは19世紀のことであったが、その時でさえも、その後いわゆる社会主義的リアリズムの理論によってリアリズム小説が計画的に貶められてしまったものの片鱗を既に持っていたのだ。すなわちルポルタージュである。そのことはその後社会科学が探求しようとしたものの先取りであった。『ボヴァリー夫人』における言葉を彫琢することへの熱狂はおそらく、まさにそうした熱狂とは反対の要素の機能である。両者の統一は芸術作品のうちしおれることのないアクチュアリティである。芸術作品の規準は二重の性質を持っている。すなわち、芸術作品が素材の層とディテイルを芸術作品に内在的な形式法則に統合し、かつ、そのような統合において形式に矛盾するものを、たとえ不純物が混ざったままでもうまい具合に維持できるのかどうかという規準である。統合自体が作品の質を保証しているのではない。芸術作品の歴史においてはこの双方の契機が何度も繰り返し分離して現われる。というのも、いかなる選り抜きのカテゴリーも、形式法則のなかで美学的に中心となるカテゴリーでさえも、個別的なカテゴリーでは芸術の本質を名指すことはないし、芸術の所産にかんする判断には不十分だからである。芸術はその確立された芸術哲学的概念とは矛盾する諸規定を本質的に有している。ヘーゲルの内容美学は、芸術が他者を含んでいるという芸術に内在的な先刻の契機を見抜き、そして形式美学を追い越した。形式美学は一見するともっと純粋な芸術の概念を操作しているし、なるほど果たしてヘーゲルやキェルケゴールの内容美学に阻まれているような歴史的展開を解き放っている。例えばそれは非対象絵画にいたる歴史的展開である。芸術の内在的な契機としての他者性を見抜いておきながら、形式を内容として考えるヘーゲルの観念論的弁証法は、美的である以前の粗野な状態に退行してしまう。ヘーゲルの弁証法は素材を描写レベルであるいは論証レベルでどう扱うかということと、芸術にとって本質構成的な他者性とを取り違えている。ヘーゲルは、いわば美学についての自分の弁証法的考え方に違反しているのだが、そこから彼には予想もしなかった結果が生まれてしまった。彼は芸術から[プロイセン]支配権力イデオロギーへの俗物的な移行を助長したのだから。逆に芸術における現実ではないもの、存在していないものの契機は、存在しているものの契機に向かい合っていて[そこから]自由ではない。前者の契機は恣意的に設定されないし、因習の望みどおりに創案されるものではなく、存在しているものの間の釣り合いから成り立っている。この釣り合いそれ自体は、存在しているものに、そうした存在の不完全性、貧困、矛盾そしてその潜在的可能性に迫られて生じているものであり、なおかつ、こうした釣り合いにおいてもまだ現実の様々な連関があとを引いている。芸術はその他者に対して、磁石と鉄の鑢屑のような関係にある。その構成要素だけではなく、その構成要素の布置、すなわち、概して芸術の精神に認められているかの独特に美的なものもまた、他者を振り返って指し示すのである。芸術作品が存在している現実と一致するということはまた、芸術作品の[磁石として]中心を形成する力が存在している現実と一致しているということでもある。この力は芸術作品のばらばらのパーツ、存在するものの痕跡を自らの周りに集める力だ。芸術作品は次の原理によって世界と源を同じくしている。この原理によって芸術作品は世界に対して際立たされ、そして精神は[芸術作品だけではなく]世界そのものを準備をしたのだった。芸術作品による綜合はその構成要素に施されるだけではない。この綜合において諸要素は互いに交流するのだが、その限りで綜合自体が一片の他者性を反復しているのである。なにしろ芸術作品の綜合は自らの土台を作品の物質的で精神から離れた側面に持っているのであって、それ自体に持っているのではない。この物質的側面において綜合は働くのである。このことによって形式という美的な契機は、抑圧しないということと結びつく。芸術作品は存在しているものとの差異において必然的に、芸術作品として存在するのではないもの、かつそれをして初めて[芸術作品が]芸術作品になるものと相対的に関係しながら自らを構成している。芸術が意図を持ってはならないという主張は、芸術の下部[物質・他者レベル]の発現に共感しているものとしては歴史の或る時点以降に認められうるものである。「芸術的芸術家」を嘲笑ったヴェデキントにおいて、アポリネールにおいて、そしてもちろんキュビスムの起原においても。この主張は、芸術がそれとは相反するものに関与していることを芸術が無意識のうちに自ら意識していることを露にしている。その無意識的な自己意識が、芸術が純粋に精神的であるという幻想を払いのけるような芸術の文化批判的転換を動機づけたのである。
(鈴木賢子)
5. 精神分析的芸術理論の批判

 芸術は社会に対する社会的アンチテーゼであり、これは社会から直接的に演繹されるものではない。芸術という領域の構造は、人間が表象する空間としての人間内部の構造と符合している。即ち、芸術は始めから昇華に関与する。それゆえ、芸術とは何であるかという定義が精神生活の理論から紡ぎだされるというのも、もっともなことなのである。人間学の不変的教説に対する懐疑から、精神分析学が推奨されることになる。しかし、それが生産的なのは、美学的というよりも心理学的になのである。芸術作品は本質的に、精神分析学からすると、芸術作品を生み出した者の無意識の投影とみなされる。そして、その精神分析学は、素材の解釈法に夢中になるあまり形式のカテゴリーを忘れ、いわば感覚が鋭敏な医者たちの俗物性を、レオナルドやボードレールといった最もふさわしくない対象に転移させてしまう。性の強調にもかかわらず(彼らが)俗物的であるということは、以下の点で暴露されてしまう。即ち、存在するものの否定性を検閲なしに客観化する作品をつくる芸術家が、伝記的手法の流行の横枝の集積でしかないような関連研究によって、神経患者として叱責されているという点においてである。ラフォルグの著書は大真面目にボードレールがマザーコンプレックスに悩まされていたことを非難している。彼が精神的に健康であっても『悪の華』を書くことができていたのか、ましてやノイローゼによって詩が劣ったものになっていたのかという疑問は浮かんですらいない。ボードレールにおけるが如く、美的水準が健康な精神の欠如によっても条件づけられていると著しく明らかな場合ですら、恥ずかし気もなく、正常な精神生活が基準へと高められるのである。

精神分析的モノグラフの大意に従えば、芸術は経験の否定性を肯定的なものに仕上げるべきである。精神分析的モノグラフにとって、そうした否定的契機は、芸術作品に言うまでもなく入り込む、かの抑圧的過程の烙印以上のものではない。精神分析にとって芸術は白昼夢である。精神分析は芸術作品を記録と取り違え、その際、芸術を夢見る人と置き換えてしまう。他方では、精神分析が手をつけられない[精神外の]領域の埋め合わせのために、精神分析が芸術を生の素材の要素に還元するが、それは、夢の作業に関するフロイト独自の説に奇妙にも遅れをとっている。芸術作品にそなわる虚構の契機は、あらゆる実証主義者によるがごとく、夢との類似が仮定されることによって、極端に過大評価されるのである。芸術家の制作過程における投射の働きは、作品との関係における単に一つの契機にすぎず、決定的なものであることはまずない。イディオム、材料も、それ自身重みを持っているが、それは分析医がほとんど夢見ることができないような、他でもない制作物それ自体のことである。音楽は脅迫的なパラノイアへの抵抗であるといった精神分析的テーゼはたしかに、臨床的にしばしば該当するものであるが、しかし作曲された比類ない作品の質と内容については何一つ語らないのである。

精神分析的芸術理論は、芸術の内部における、それ自体芸術らしからぬものに光をあてるという点において、観念論的芸術理論よりも勝っている。精神分析的芸術理論は芸術を絶対精神の呪縛から救い出す助けとなる。卑俗な観念論は、精神分析的芸術理論の認識に対して、ましてや芸術が衝動と関連しているという認識に対してはなおさら恨みを持って、(観念論的)芸術を、表向きにはより高い領域において隔離するが、精神分析的芸術理論は啓蒙の精神において、これとは反対の立場を取る。精神分析的芸術理論は、社会的性格―それは作品が物語っており、それにおいて、しばしばその作者の性格がはっきりと現れているのであるが―を解き明かすことで、作品の構造と社会的構造との具体的な調停のつなぎめの役割を担う。しかし、この精神分析的芸術理論それ自体、観念論と似通った呪縛、即ち主観的な衝動に対応する絶対的に主観的な記号体系の呪縛を広めてしまう。これは諸現象を解読するが、芸術の現象にまで達することはない。精神分析的芸術理論にとって芸術作品は事実以上の何ものでもないが、しかしそれゆえに、この理論は、芸術作品固有の客観性、調和、形式の水準、批判的衝動、非精神的現実との関係、そして最後に真実の理念を取りこぼしてしまうのである。

ある女の画家は、患者として分析医との間では完全に正直になると契約していたが、分析医の部屋の壁を損ねていた劣作であるウィーンを描いた銅版画について彼女がからかうと、彼は、これが彼女の側の攻撃以外の何ものでもないと彼女に説明した。芸術家をただカウチのみから知る医者が想像するのとは全く異なり、芸術作品は芸術家の似姿でもなければ、所有物でもない。ディレッタントだけが芸術におけるあらゆるものの焦点を無意識に合わせるのであり、その純粋な感情が使い古されたクリシエを繰り返すのである。芸術制作の経過において、無意識的な感情の動きは、数ある中でも、とりわけ衝動と素材にあたる。無意識的な感情の動きは形式的法則に仲介され、芸術作品に入り込む。そうだとすると作品を完成させた文字通りの主体は、描かれた馬以上のものではないということになるだろう。

芸術作品は芸術家の「主題統覚検査」ではない。精神分析が現実原則をやたらと崇拝することは、そうした芸術的センスのなさと同罪である。現実原則に従わないものは常に単なる「逃避」にすぎないのであり、現実への適応が最高善とされるのである。現実から逃れるためのあまりに多くの実際的な動機を、現実そのものが提供するので、逃避への憤慨―それは調和的なイデオロギーによって支えられているのだが―は引きも切らない。心理学が芸術を心理的であると認めるよりも、まさしく心理的に、芸術は正当化されるであろう。想像力は確かに逃避でもあるが、しかし、徹頭徹尾そうだというわけではない。

現実原則を卓越したものへと超越させるものは、常に想像力の下にある。想像力に指を触れることは意地の悪いことなのである。芸術家のイマーゴは、許容されたもののイマーゴ、即ち、分業社会に組み込まれた神経症患者のそれへと歪められている。ベートーベンやレンブラントといった最高位にある芸術家においては、極めて先鋭な現実意識が現実からの疎外と結びついていた。そうして初めて、芸術の心理学にふさわしい対象となるだろう。芸術の心理学は、芸術作品を、芸術家と同一のものとしてだけではなく異なるものとして、抵抗しているものの働きとしても、解読しなければならないだろう。芸術が精神分析的な根を持つのならば、それは、全能である空想(Phantasie)の根なのである。しかし、芸術においては、よりよい世界を作り出すという願望もまた働いている。このことは弁証法全体を生み出すのであるが、他方、芸術作品を無意識の単に主観的な言語とみなす考えでは、こうした弁証法には決して辿りつくことがない。

(水田有子)
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